鄭の子晳
秋、鄭の公孫黒(子晳)が游氏(游吉)を除き、その地位を奪うことを考えていたが、前年負った怪我のため、実行できずにいた。
その間に駟氏と諸大夫は公孫黒を殺そうとした。公孫黒も駟氏に属していたが、駟氏は公孫黒の横暴が一族に禍をもたらすことを畏れたため、彼を除こうとしたのである。
この時、子産は辺境に視察として出向いていたが、情報を聞くと遽(伝車)で急いで戻った。
鄭都に還った子産は官吏を集め、公孫黒の罪状を宣言した。
「伯有の乱の際、大国の事があったので(大国に仕えて忙しかったので)、汝を討伐することはなかった。しかしながら汝の乱心は尽きることがなく、国は汝を許容できなくなった。汝が専権して伯有を討ったのは一つ目の罪である。昆弟(兄弟)でありながら室(妻)を争ったのは、二つ目の罪である。薫隧の盟の際で君位(君子の地位)を偽ったことは、(六人の会に強引に参加して「七子」と記録させたこと)は三つ目の罪である。死罪が三つもあっては、逃れることはできない。速やかに死ななければ大刑(死刑)が到ることになるだろう」
公孫黒が再拝稽首して言った。
「死は朝夕に迫っておりますので(負傷により)、天を助けて自分を虐する必要はございません」
天が私を負傷させて殺そうとしているのだから私が自ら死んで天を助ける必要はないというのである。それに対し、子産は言った。
「人は誰でも死ぬものの、凶人は善い終わりを迎えないものだ。これは命(天命)である。凶事を行った者は凶人であり、天を助けずに凶人を助けるというのか」
大往生など凶人には必要無い。
公孫黒は子の印を褚師(市官)に任命するように請うた。しかし子産は、
「印に才があれば国君が任命することである。不才ならば朝夕には汝に従うことになるだろう。汝は自分の罪を理解しようとしないにも関わらず、何を請おうというのだ。速く死ななければ司寇(法官)によって裁かれることになるぞ」
七月、公孫黒は首を吊って死んだ。
その死体は周氏(地名)の衢(大通り)に晒され、罪状を書いた木が立てられた。
晋の平公に嫁いだばかりの少姜であったが、自分のせいで、陳無宇が捕らえられたことに心を痛めたのか死んでしまった。
魯の昭公が弔問のため晋に向かったが、黄河まで来た時、平公が士伯瑕を送ってこう伝えた。
「正妻ではないため、弔問は不要でございます」
昭公は引き返し、季孫宿に少姜の襚服(死者の服)を届けさせた。
この状況の中、叔向が陳無宇を助けるために、平公に言った。
「彼に何の罪があるというのでしょうか。主公は公族(大夫)に迎えに行かせ、斉は上大夫を使って送ってきたのです。それでも不恭というのであれば、主公は貪欲過ぎましょう。我が国自身が不恭であるのに、他国の使者を捕えるようでは、主公の刑は偏っていおります。これで盟主でいられますか。それに、少姜の言葉(陳無宇を釈放するように勧めた話)も残されております」
十月、陳無宇が国に帰された。
「やっと開放された。くそ、何故私がこのような目にあうのか」
十一月、鄭の印段が晋に入り、少姜の弔問をした。
この年、蔡で漆離開が産まれた。後に孔子の弟子となる人物である。
紀元前539年
正月、鄭の游吉が晋に入り、少姜の葬礼に参加した。
晋の大夫・梁丙と張趯が游吉に会った。梁丙が問うた。
「卿のあなたが妾の葬礼に参加するのは、度を越えてはいないでしょうか」
游吉はこう答えた。
「仕方がないことです。昔、晋の文公と襄公が霸を称えた頃は、諸侯を煩わせることはなく、諸侯三年に一回の聘(聘問)と五年に一回の朝(朝見)を命じられ、事があれば会し、不協ならば(諸侯が不仲になったら)盟を結んだのです。国君が薨じれば(死んだら)大夫が弔問し、卿が葬事に参加したのです。夫人が死んだら士が弔問し、大夫が送葬しました。ただ礼を明らかにし、命令を発し、不足を補う相談をするだけで足りておりました。それ以外の命が加えられることもございませんでした。しかし今は、嬖寵(寵姫)の喪事でも適切な人選が許されず、守適(正夫人)に対する礼を越えようとも、ただ罪を得ることを恐れるだけで、それを煩いと思うこともありません。少姜が寵を受けて死んだため、斉は続けて室(妻妾)を送ろうとしております。そうなったら私は祝賀のためにまた来なければなりません。今回だけでは済まないでしょう」
張趯は、
「素晴らしいことだ。私は礼数(聘問・朝見・弔問・葬送の礼)について聞くことができました。但し、今後、あなたに煩わしいことは起きないと思われます。例えば火(大火。火星)が天中に昇れば、寒暑が減退することになります」
大火の星は、夏の終わりになると夕方の天中に昇り、その後、暑さが減退した。また冬の終わりになると早朝の天中に昇り、寒さが減退した。
「これは極(極限。頂点)というものでございます。極に至れば、減退しないはずがないでしょう。晋はやがて諸侯を失い、諸侯はたとえ煩いを望もうとも得ることがなくなりましょう」
二大夫が退いてから、游吉が人に言った。
「張趯はよくわかっている。君子の後(列。類)に並ぶべき人物と言えるだろう」




