韓起
紀元前540年
春、晋の平公が韓起を魯に聘問させた。
魯の昭公が前年即位したばかりであることと併せて晋の趙武が死に韓起が執政とすることが魯に伝えられた。
韓起が魯の大史(太史)を訪ねて『易(周易)』『象(政令)』『魯春秋(史書)』を読み、こう言った。
「周の礼は全て魯にあると聞いていたが、私は今やっと周公の徳と周が王になれた理由を知ることができました」
昭公が韓起を享に招いた。立ったまま行う宴の一種である。
季孫宿が『緜(詩経・大雅)』の末章を賦した。周の文王に優れた臣下がいたことを歌っており、文王を晋君、優れた臣下を韓起に喩えている。
韓起は『角弓(小雅)』を賦した。兄弟の和睦の歌である。
季孫宿が拝礼して言った。
「あなたが兄弟として我が国の欠点を補ってくださりますので、敢えて拝させていただきます。我が君にも望(希望)があります」
季孫宿は『節(小雅・節南山)』の末章を賦した。詩の最後に、『万国を隆盛させん』とあり、『万国が晋の徳によってその恩恵を受ける』という意味で引用した。
昭公の享が終わると、今度は季孫氏の家で酒宴が開かれた。そこに一本の美しい木があったため、韓起が称賛すると、季孫宿が、
「『角弓(韓起が賦した詩)』を忘れないために、この木を大切に育てることを誓います」
と言って『甘棠(召南)』を賦した。周の賢臣・召公を称える詩である。ここまで来ると媚びすぎである。
韓起は謙遜して、
「私は召公に及びません」
と答えた。
韓起は魯を去って斉に行った。平公の婚姻のために、幣(財礼)が贈られる。
韓起が子雅に会うと、子雅は自分の子の旗を招き、韓起に会わせた。ところが韓起は彼を一目見て、
「彼は家を守る主ではなく、臣下としてもふさわしくないでしょう」
と評価した。
韓起が子尾に会うと、子尾も子の彊を招いた。韓起は子旗に言った内容と同じ評価をした。
多くの大夫が韓起を笑った。ある意味、外交問題を起こしかねない行為である。状況はだいぶ違うがかつて晋の使者を笑って、外交問題を起こしたことを覚えていないのか。
そんな中、晏嬰だけは信じた。
「彼は君子だ。君子には信があるものだ。その判断には根拠があるはずであろう」
晏嬰の言葉に場は静まった。
次に韓起は斉から衛に行った。聘問が終わると衛の襄公が享礼でもてなした。
北宮佗が『淇澳(詩経・衛風)』を賦した。衛の武公を称賛した詩で、韓起には武公に匹敵する徳があるという意味がこめられている。
韓起は『木瓜(衛風)』を賦した。木瓜をくれれば、美玉でお礼をするという詩で、衛の友好に厚く報いることを意味している。
四月、晋の韓須(韓起の子)が斉に入って平公に嫁ぐ女性である少姜を迎えに来た。
斉は陳無宇に命じて少姜を晋まで送らせることになった。
陳無宇としては舌打ちしたい気分である。韓須は公族大夫で、陳無宇は上大夫なのである。地位としては彼の方が上である。
彼は送る人と迎える人物は同じであるべきと主張していたが、子尾らは大国だからと彼を送り出した。
(ちっ嫌がらせか何かか)
嫌な予感を覚えながら、陳無宇は晋に向かった。
さて、少姜は正夫人と言えないのだが、平公は大層彼女を寵愛し少斉と呼んだ。通常、女性は姓で呼ばれるのだが、国名の斉で呼ばれた。これは普通とは異なる愛され方をしていたことを示す。
このように愛された愛しき少姜を送って来たのが平公は卿でない陳無宇であったことに不満を覚えた。本来、卿が送るのは正妻となる女性である。しかし平公は彼女を深く愛していたため、正妻と同じ礼を用いなかったことに不満だったのである。
公私混同とはこのことである。
平公は陳無宇を捕えて中都(晋の邑)に監禁した。
(悪い予感が当たった)
陳無宇はこの状況になることは予見はしていた。
(さて一応、手は打っといたが)
少姜が陳無宇のために言った。
「送る人と迎える人の地位は同等でございましたが、大国を畏れるが故に変更があり、その結果、混乱が生まれてしまいました」
先ほども述べたが迎えに行った韓須は公族大夫で、送って来た陳無宇は上大夫であるため、陳無宇の方が上なのである。
しかし斉は晋を大国とみなして陳無宇を派遣した。その結果、混乱が生まれたのである。そのため、
「韓須よりも身分が高い陳無宇は、本来、来るべきではなく、それなのに晋に来たから逮捕された」
とわざと曲解していたのである。平公の不満を解くためである。
だが、頑なに平公は陳無宇を開放しようとはしなかった。
魯の叔弓(子叔子)が晋を聘問した。韓須の聘問に応えるためである。
平公が使者を送って郊外で労おうとしたが、叔弓が辞退した。
「我が君は旧好を継続させるために私を派遣し、こう命じました。『汝は賓客になってはならない』我が君の命を執事(晋君)に送ることができれば、それだけで我が国の弘(光彩)となるのです。郊使(郊外で賓客を迎える晋の役人)を煩わせるわけにはいきません」
平公が叔弓を賓館に住ませようとすると、叔弓はこう言った。
「我が君は下臣に旧好を継続させることを命ぜられました。好が結ばれ使命を完遂するのであれば、臣下の福禄というものでございます。大館に入ることはできません」
叔向は彼を称えた。
「叔弓は礼を知っている。『忠信は礼の器であり、卑譲は礼の基本なり』という。言辞が国を忘れないのは忠信である。先に国を語り、己を後にするのは卑讓である」
先に「我が国の弘」と言い、後から「臣の福禄」と言ったこと。
「『詩(大雅・生民)』には『威儀を慎みて用いれば、徳がある人と親しくなるだろう』とある。彼は徳に近づいていると言える」




