表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

378/557

趙武

 趙武ちょうぶが室(家)を建てた際、椽(屋根を支える横木)に使う木を伐り、樹皮を削って磨いていた。

 

 夕方、張老ちょうろうが趙武の家を見に行きたが、彼は趙武に会わずに帰ってしまった。


 それを知った趙武は車を駆けさせて追いかけ、追いついた張老にこう問うた。


「私に不善があれば、あなたはそれを告げるべきなのに、なぜすぐ帰るのでしょうか?」

 

 張老は答えた。


「天子の室は椽の樹皮を削ってから粗磨きをし、更に密石(細かい凹凸がある石)で磨き、それに光沢をつけます。しかし諸侯は粗磨きだけ、大夫は樹皮を削るだけ、士は椽の頭を切りとるだけと決まっております。使う物が適切であることを義と申します。尊卑の等級に従うことを礼と申します。今、あなたは尊貴な地位に立ち義を忘れ、富貴を得て礼を忘れております。そのため私は禍を受けることを恐れ、何も告げなかったのです」

 

 趙武は家に帰ると磨くのを止めさせた。匠人が椽を全て荒削りの状態に戻すべきか問うと、彼は首を振り、


「磨いた物はそのままでよい。後世の人に見せねばならん。荒削りの椽は仁の者が作ったものである。磨いた椽は不仁の者が作ったものである」

 

 これが趙武という男であろう。普通の人であれば、張老の言葉を受けて、椽を元に戻すか捨てるが、彼はそうはしなかった。己の過ちを認め、その過ちを他の者も犯さないように敢えて残したのである。


 見事な人である。

 

 ある日、趙武が叔向しゅくきょうに聞いた。


「晋の六将軍(六卿)で、誰が先に滅ぶと思うか?」

 

「中行氏でしょう」

 

「どのような理由でそう言い切れる?」


「中行氏の政治は、苛烈を明察とし、詐術を英明としており、刻薄を忠と見なし、謀略が多いことを善と見なし、聚歛(民の財を集めること。重税)を良としております。これはまるで皮革を引っ張るのと同じで、大きくすることはできますが、最後は引き裂かれることになります。だから早く滅亡するでしょう」

 

 十二月、晋が烝(冬の祭祀)を行った。

 

 その後、趙武が南陽に行き、孟子餘の祭祀の準備をしました。子餘は趙衰ちょうしの字で、「孟」は趙氏の主につける字である。


 例えば趙衰、趙盾ちょうとん)、趙武等は「趙孟」とよばれてる。温に孟子餘の廟があった。

 

 さて、趙武が温で烝(孟子餘の祭祀)を行ったのは、甲辰朔であるとされている。

 

 もしも十二月の朔日(初一日)に趙武が烝祭を行ったとすれば、国の烝を行ってから家の烝を行ったはずであるため、晋が国の烝を行ったのは十二月よりも前の月になると思われる。

 

 祭祀を終えて数日後のある日、趙武は、


「少し疲れた休む」


 といい、部屋で休み始めた。


「疲れた……」


 最近では、めっきり体力が無くなり、髪には白髪ばかりとなっていた。


「老いたものだ……」


 ふと、頭に思い浮かぶのは、顔を知らぬ父のことである。


(私の父はどのような顔をしていたのだろうか……)


 自分が生まれた頃に父は死んだと聞いている。そのため自分は父の顔を知らない。


(母の顔も朧げでもある。親不孝であるなあ)


 そのように思い、若い時は泣くことも多かった。


(その度に韓厥かんけつ殿に慰められたものだ)


 その恩人ももう世にはいない。


 そのようなことを考えていると部屋の扉が静かに開いた。そして、その扉から頭だけ出して、覗き込んだのは、小さな童子であった。


「おお、どうしたおうや」


 童子の名は趙鞅ちょうおうといい、趙武の孫である。


「お祖父様」


「良い、良いこちらへおいで鞅や」


 趙武が手で招くとたどたどしい足取りで、趙武の近くに寄ってきた。趙武は彼を抱き抱え、膝の上に乗せた。


「どうしてここに来たのかね」


「お祖父様の調子が悪そうだったから見に来たの」


「そうか、そうか優しいのう」


 趙武は趙鞅の頭を撫でる。趙鞅は擽ったそうに目を細める。


「鞅や。鞅はどんな男になりたい?」


 彼がそう尋ねると趙鞅は、


「お祖父様のような立派で強い男になりたいです」


 と言うと、


「そうか、そうか」


 そんな趙鞅を趙武は目を細める。


『趙武様はどのような男になりたいですかな』


 彼は韓厥にも同じように尋ねられたことがある。


『国のため、民のため、尽くせるような人物になりとうございます』


『趙武様でしたら必ずやそのような人物になりましょう』


 韓厥が嬉しそうにそう言うのを覚えている。


『そうでしょうか?』


『ええ、そうです』


 その様子を浮かべながら、趙武は趙鞅に言った。


「鞅なら私以上の者になれるぞ」


「本当ですか?」


「本当だとも」


「わーい」


 趙鞅は嬉しそうに膝の上で足を動かす。それを微笑みながら見つめる。


『趙武様は民に優しい人物となられましょう。しかしながら厳しさも待たねばなりません』


『厳しさですか』


『はい、かつてその優しさと厳しさを有した士会しかいという人物がおりました』


 その時の韓厥の顔は懐かしさを感じさせる表情を浮かべていたのが印象的であった。


『士会殿はかつてこう申しておりました。謀に長けし者は礼を知らねばならぬと』


『礼ですか……』


「そうです。士会殿は礼を失えば、人は獣の類になるとも申しておりました。これはあなた様にとっても意味を持つはずです。お忘れなきよう』


 その言葉を思い出しながら趙鞅に言った。


「鞅や。爺のこれから言う言葉を忘れないようにしておくれ」


「なんですか?」


「『謀に長けし者は礼を知らねばならぬ』」


「難しいです」


 頭を抱える趙鞅を見ながら、彼の頭を撫でる。


「今は良い。だが、忘れないでくれ、偉大な先人の言葉だ」


「はい」


「よしよし、さあそろそろ寝なさい」


「はい、お休みなさい。お祖父様」


「お休み」


 趙鞅が部屋を出ると趙武は寝床で横になり、目をつぶる。


「鞅の立派な姿を見るのはいつだろうか……」


 そう呟いて、静かに眠りについた。二度と目を開けることのない眠りに。










 

 趙武の後は趙成ちょうせいが継いだ。

 

 後に、晋の平公へいこうが九原(晋の卿大夫の墓地)に出向くことがあった。

 

 平公が九原で嘆息して言った。


「この地には我が多くの良臣が眠っている。もしも死者を起こすことができるというのであれば、誰と共に帰るべきだろうか」

 

 同行していた叔向が答えた。


「趙武はどうでしょうか?」

 

「汝は師(上司。趙武)の肩を持ちたいだけだろう」

 

 平公がそう言うと叔向はこう答えた。


「人々は趙武をこう評価しています。趙武が立てば、衣服の重さにも堪えることができず、その言葉は口から出ないようでした」


 趙武は衣服の重さにも堪えられないほど虚弱で、声も小さかったようである。


「しかしながら彼は白屋(平民の家。ここでは趙武自身の家のこと)で四十六人の士を抜擢し、それらの士ら全てを趙武に満足させ、公家も彼等に頼っております。趙武が死んでからは、四十六人とも賓客の席に就いておりました」


 葬礼の際、四十六人は趙武の家臣としてではなく、賓客の席にいたということで、趙武は優秀な人材を趙氏だけの家臣にしなかったという意味である。


「これは趙武に私徳(私欲)が無かったと言えます。だから私は彼を賢人だと思うのです」

 

 平公は納得して「よし(善)」と言った。

 

 それを見ながらこの会話と同じようなことがあったと叔向は思い出していた。


 趙武と九原に巡遊していた時のことである。


「死者が復活できるとすれば、誰と帰るべきだろうか?」


 趙武がそう言うと叔向は、


陽処父ようしょほはどうでしょう」

 

 と言うと趙武はこう答えた。


「彼は国において廉直(剛直で計が無いこと)であったため、禍から逃れることができなかった。その智謀は称賛できない」

 

舅犯きゅうはん狐偃こえん)はどうしょう」

 

「彼は利を見て主君を顧みようとしなかった。その仁は称賛することができない」


 文公ぶんこうと共に狐偃は亡命生活を送ったが、帰国する時に去ろうとした。それは称賛できるものではないと言ったのである。


「士会が良い。彼は諫言を受け入れながらも己の師を忘れず(師に意見を求め)、自分の事(善行や功績)を語ろうとも友の善を忘れたことがなく、国君に仕えれば身内を優先せず賢人を進め、国君に阿諛せず不肖の者を退けることができた」


 そう言っていた趙武を思い出しながら彼が死んだことを叔向は悔いた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ