暴君即位
蛇足という名の前漢人物伝を更新しています。
楚の公子・囲が公子・黒肱(子晳。公子・囲の弟)と伯州犁に命じ、犨、櫟、郟に築城させた。
三邑とも元々鄭の地であったため、鄭では多くの人が恐れたが、子産がこう言ってなだめた。
「害はない。令尹(公子・囲)は大事を成すために二子を除こうとしているのである。禍が鄭に及ぶことはないはずだ」
冬、楚の公子・囲が鄭を聘問することにした。伍挙が介(副使)を務める。彼らが楚の国境を越える前に楚王・麇が病に倒れたと聞いた。
「伍挙よ。汝はこのまま、鄭へ向かえ、私は王の見舞いに向かう」
そう言って公子・囲は引き返した。
十一月己酉(初四日)、公子・囲が楚都に還った。
「私は王が病と聞いて、いてもたっても居られず、参った。王の病はどうだ」
突然、兵を連れて帰国した彼に皆、驚いていると、
「ええい良い、自ら見に行く」
そう言って、王の病状を聞くという名目で王宮に入っていった。
「王よ。どうですか」
彼が楚王・麇の部屋に入り、そう言うと楚王・麇は起き上がろうとした。
「ああ、無理に起きがらなくとも結構でございますぞ。無理をしますと……大変お体に悪い。いや、言葉を間違えてしまいました。立ち上がられるとこちらとしても面倒でありましてな。そう、お前を殺すのにな」
公子・囲は手元にもっていた紐を直様、楚王・麇の首にかけ、一気に締めた。楚王・麇は声を上げる。
「おやおや、お声をあんまりお上げになりますと、お体に悪くございますぞ」
その様子に公子・囲はにやにやと笑いながら、更に締め上げていく。
「早く死ね。糞めが」
公子・囲は楚王を縊殺した。
「これで私が王となった。全く面倒この上なかったぞ」
彼は絞め殺した楚王・麇は寝床に蹴り飛ばすと兵を呼ぶ。
「こやつの子らを殺せ」
彼の命令により、楚王の二子である幕(または「莫」)と平夏も殺された。
「他の連中をもだ」
公子・囲は自らの権力を糧に、自分の敵となり得る者たちの排除に動いた。
それにより、右尹・子干(王子・比)は晋に出奔し、築城のため外にいた宮厩尹・子晳(公子・黒肱)はそのまま鄭に出奔した。
大宰(太宰)・伯州犁は郟で殺された。
楚王・麇は郟に埋葬され、郟敖とよばれるようになった。正式な諡号ではなく、埋葬された地名(郟)が使われている。
「敖」は当時の南方の言葉で「族長」の意味と、または「陵」の意味といわれている。つまり、楚王・麇は郟の地に埋葬されたため、郟地の墓陵に眠る人という意味で「郟敖」とよばれたのである。
公子・囲は鄭に使者を送って郟敖の訃告を届けた。
鄭を聘問中の伍挙が、訃告文の後継者に関する部分を使者に問うと、楚の使者は、
「寡大夫(寡国の大夫)・囲」
と答えた。
伍挙はそれを、
「共王の子・囲を長にする」
と改めさせた。
子干が晋に入った。従う車は五乗だけであった。落ちぶれたというべき状況であった。
晋の叔向は子干を秦の公子・鍼(后子)と同列にし、百人の餼を禄として与えることにした。
「百人の餼」というのは直訳すると百人の食糧という意味で、百人は一卒といい、上大夫は一卒の田(百畝)の収穫を秩禄とした。つまり二人の公子は上大夫と同等の待遇を受けたことになる。
これに趙武が、
「秦の公子の方が富を持っているではないか」
と言うと、叔向が答えた。
「俸禄とは徳を元にして決められるものであり、徳が同じならば年を根拠とし、年が同じならば尊卑(地位)を根拠とするものです。他国から出奔してきた公子は国の大小によって禄が決められるものですが、本人の富で決めるとは聞いたことがございません。そもそも、千乗の車を率いて自国を去るのは豪強すぎます。『詩(大雅・烝民)』にはこうあります『弱者を虐げず、強者を畏れん』秦と楚は同格の国でございますので、出奔した者の待遇も同格にするべきなのです」
彼は正論を持って、二人を同列にした。しかしながら地位はともかく徳という点は果たして同列と言えるだろうか。
晋が后子と子干を同列にすると、后子が辞退した。
「私は放逐されることを畏れ、楚の公子は国君に疑われたため出奔してきました。どちらも晋の命に従う立場におります。しかし、臣と羈(客)が同列になることはなりません」
后子は先に来たため、自らを晋の臣下としている。そして、晋に来たばかりの子干は客であるとしたのである。
「史佚(周の史官)は『客ではない者を、なぜ敬わなければならないのだろう』つまり客は敬わなければならないと申しました」
后子は子干を尊重するよう叔向に勧めた。
楚の公子・囲が即位し、熊虔(または「熊乾」)に改名した。これを楚の霊王という。
薳罷(字は子蕩)を令尹に、薳啓疆を大宰(太宰)に任命した。
鄭の游吉が楚に入り、郟敖の葬礼に参加してから霊王の即位を祝って聘問した。
帰国後、子産に言った。
「外出の準備をなさるべきです。楚王は驕慢奢侈で、自分の行動に自信を持っている男です。必ず諸侯を糾合することになり、楚が開く会に参加することになりましょう」
しかし子産はこう言った。
「数年経たなば、会を開くことはできない」




