素晴らしいかな。まるで国君のようだ
紀元前541年
楚の令尹である公子(王子)・囲が鄭を聘問し、公孫段家と婚姻をすることになった。伍挙が介(副使)を勤めた。
公子・囲一行は鄭城内の賓館に入ろうとしたが、
「楚は何をするかわからない。入れるべきではなかろう」
鄭人は楚の姦計を警戒したため、行人(賓客の対応をする官)・子羽(公孫揮)を派遣して婉曲に説得し、城外に宿営させた。
聘礼が終わると、公子・囲は再び軍を率いて新婦を迎えようとした。
鄭の子産この楚の動きを心配し、再び子羽を送り、こう伝えた。
「我が国は小さく、(公子・囲の)従者(実際は兵団)を入れることができません。墠で命を聴くことをお許しいただきたい」
墠というのは地をならして造った祭祀の場所のことである。古代の婚姻において、婿は新婦の実家の祖廟に行って新婦を迎えることになっていた。しかし公子・囲を城内に入れたくない鄭は城外に祭壇を作り、公孫段の祖廟の代わりにしようとしたのである。
公子・囲は大宰(太宰)・伯州犁を送ってこう答えた。
「貴君は寡大夫(我が君の大夫。公子・囲のこと)に恩恵を与え、豊氏(公孫段)と婚姻させられた。そこで囲(公子・囲)は几筵(座席や宴席のことだが、ここでは儀式の場のこと)を設け、荘王と共王の廟に報告してから、新婦を迎えに来たのです。もしも野(場外)で恩恵を受け入れれば、鄭君の恩恵を草莽(草が生い茂った場所)に棄てることになり、寡大夫が諸卿に列することもできなくなってしまいます(諸侯の卿が受ける礼ではありません)。それだけでなく、正式な婚姻ができなければ囲に先君を偽らせ(宗廟への報告が嘘になる)、我が君の老(大臣。重臣)にもなれなくしてしまいます。これでは帰国して復命することができません。大夫はよくお考えくださいませ」
言葉自体は優しいが、実際は「俺に地べたで儀式やれというのかふざけんじゃねえ」という意識むき出しである。
子羽が言った。
「小国に罪がないにも関わらず、実(大国)に頼り、備えをしなければ、それこそ罪になります。小国が大国に頼り、安靖を得ようとしているにも関わらず、大国が禍心(人に禍を与えようとする心)を持って小国を謀ろうとするのでしょうか。小国が(楚の)頼りを失えば(大国に襲われたら)、諸侯は警戒し、怨みを持たない者はいなくなりましょう。そうなれば諸侯は君命に逆らい、君命が行き届かなくなるのです。我々はそれを恐れております。そうでなければ、我が国は貴国の賓館に等しく、豊氏の祖廟を惜しむことはありません(入国を拒むことはありません)」
そちらがそのような態度で来るのであれば、相手になるぞという態度を彼は見せた。鄭は小国とはいえ、舐められた行為に出れば戦う覚悟はいつでもできているのである。
伍挙は鄭に備えがあると判断し、櫜(武器を入れる袋)を逆さにして鄭城に入ることを請うた。櫜を逆さにするというのは、武器を持っていない、戦うつもりがないという意志を表す。
それを受け、鄭は公子・囲の入城を許可した。公子・囲は入城し、豊氏の祖廟で新婦を迎えて城を出た。
その後、晋の趙武、楚の公子・囲、斉の国弱(または「国酌」)、魯の叔孫豹、宋の向戌、衛の斉悪、陳の公子・招、蔡の公孫帰生、鄭の罕虎(または「軒虎」。字は子皮)および許人、曹人が虢(郭)で会した。
宋の盟(弭兵の盟)を確認するためである。
晋の祁午(祁奚の子)が趙武に進言した。
「宋の盟では楚人が晋に対して志を得ております(晋の先に歃血の儀式を行った)。今、令尹(公子・囲)の不信は諸侯が知っていることでございます。警戒しなければまた宋の盟と同じことになりましょう。子木(宋の盟に参加した楚の令尹)の信は諸侯に称賛されましたが、それでも晋を騙して(服の下に甲冑を着て会に参加したことを指す)凌駕しようとしました。不信な者であるならば、なおさら危険と言えましょう。楚が再び晋に対して志を得れば、晋の恥となりましょう。あなたが晋の相として盟主になってから、既に七年が経っております。その間に二回諸侯を集め(夷儀と澶淵の会盟)、三回大夫を集め(宋、澶淵、本年の虢)、斉や狄を服従させ、東夏(東方諸国)に安定をもたらし、秦の乱を収め(秦との対立を解消したという意味)、淳于に築城しました(杞のための築城。正確にいうとこれは彼が主導したかというと疑問が残る)。しかし師徒(車兵と歩兵。軍隊)を損なず、国家を疲弊させず、民には誹謗がなく、諸侯には怨みが無く、天も大災を降しておりません。これはあなたの力によるもの。私はあなたが令名(美名)を持ちながらも最後は恥で終わるのではないかと心配しています。あなたは警戒しなければなりません」
趙武は感謝しながら言った。
「ありがたく言葉を受け入れます。しかし宋の盟では子木に禍人の心があり、私には仁人の心がありました。これが楚が晋を凌駕できた理由でございます。今も私の心は同じであり、楚が再び僭(不信)を行おうとも我々を害すことはできません。私は信を根本とし、それに基づいて行動するだけのこと。農夫に喩えるならば、ただ心を尽くして雑草を除き、苗を植えれば、たとえ飢饉があろうとも、必ずや最後は豊年(豊作)になります。信を守ることができれば人の下になることはないと申しますが、私はまだ信を守ることができていません。『詩(大雅・抑)』にはこうあります『信を守り人を害さなければ、人々の模範になれないはずがないだろう』信を守る人というのは、他者の模範になる者を指し、人の下になることはありません。私はそれができないことを難(憂い)としています。楚は私にとって患憂にはなりません」
令尹・囲は諸侯が改めて盟を結ぶ時、旧書(宋の盟)を宣読し、犠牲の上に置くだけですませるように提案した。晋が先に歃血をするのを恐れたためである。晋が同意したため、歃血の儀式は行わないことになった。
三月、盟が結ばれた。宋の盟約が改めて確認されたため、この会を「第三次弭兵の会」と呼ばれることになる。
会盟の際、楚の公子・囲が国君の服飾・器物を並べ、二人の衛兵を傍においた。
それを見た魯の叔孫豹が言った。
「楚の公子は素晴らしいかな。まるで国君のようだ」
褒めたわけではなく公子・囲を暗に批判している。
続いて、子皮が、
「戈を持った二人の衛兵が彼の前にいる」
これは国君が即位する時の配置であるため、まるで国君のようだということである。
蔡の子家が言った。
「蒲宮(楚の離宮。本来は楚王の宮殿)には初めから二人の衛士がいるのだ。おかしなことではない」
公子・囲が蒲宮に住んでいることを彼は公言したのである。
楚の伯州犁が弁解した。
「これらのものは、今回、国を出た際に我が君(楚王・郟敖)から借りてきたのです」
鄭の子羽は皮肉的に言った。
「借りても返さないだろう?」
「あなたは子晳が背こうとしていることを心配するべきです」
「本物の璧(楚王。または後に楚の平王となる弃疾)がまだいるにも関わらず、借りたものを返さなくて、あなたは心配ではないのか?」
皮肉に皮肉を返す二人の様子を見て、国弱は、
「私は二子が心配である」
この二子は楚の王子・囲と伯州犁を指すという説と、楚の伯州犁と鄭の子羽を指すという説があるが恐らく前者であろう。
陳の公子・招は、
「危険を憂慮せずに事を成せるはずがない。今の二子(ここは王子・囲と伯州犁)は楽しんでいる」
二人は危険を考慮せず、現状を楽しんでいる。事は成功しないだろうということである。
衛の斉悪が言った。
「事前に知っているのであれば、禍があっても害されることはない」
宋の合左師・向戌は、
「大国が令を発すれば、小国はそれに仕えるだけのこと。我々は恭敬を知るだけで良く敢えて楚を批判する必要はないではないか」
晋の楽王鮒は、
「『小旻(詩経・小雅)』の最後の一章は素晴らしいかな。私はそれに従おうだけだ」
『小旻』の最後は冒険をせずに慎重に生きるという内容で、楽王鮒は諸侯の議論に加わらず、自分の道を進むことを表明したのである。
会が終わってから、子羽が子皮に言った。
「叔孫は適切かつ婉曲で、宋左師は簡潔で礼があり、楽王鮒は自愛して恭敬であり、あなたと子家(蔡の公孫帰生)は非難しながらも反発を買うようなものではありませんでした。皆、代々家を保つことができるでしょう。しかしながら斉、衛、陳の大夫は禍から逃れることができません。国子は人の憂いを自身の憂いとし、子招は憂いを楽しみとし、斉子は憂いを害としませんでした。自身に憂いがないのに憂いたり、憂いがあるのに楽しみに変えたり(陳の公子・招は楚の二子が楽しんでいると言ったので、公子・招自身が憂いを楽しみに変えたわけではなく、子羽の曲解というべきものである)、憂いがあっても害と考えないのは、憂いを招く道と言えます。『大誓(尚書・泰誓)』にはこうあります『民が望むところに天は必ず従うだろう』三大夫に憂いの兆しがあるため、禍を避けることはできません。言によって物(事象)を知ると言いますが、まさにこの事でしょう」
叔孫豹の言葉は煽りに使えそうなのが多い。




