礼の国は何処に
紀元前542年
正月、魯の叔孫豹が澶淵の会から還り、仲孫羯に会って言った。
「趙武はもうすぐ死にましょう。その言葉は偸(目先のことしか考えず、遠謀がないこと。目先の安逸に満足すること)であり、民の主催者とは思えない姿であった。また、年も五十に満たないにも関わらず、言葉がくどくて八、九十歳の老人のようだ。長生きできるはずがない。もしも彼が死ねば、政治を行うのは韓起だろう。彼は君子と言うべき人物だ。あなたはこのことを季孫(季孫宿)に、彼と早く善い関係を結ぶよう伝えよ。晋の国君はやがて政権を失う。事前に韓起との関係を強化して魯のための備えとするべきだ。韓起は懦弱で、大夫の多くは限りなく貪婪であることを抑えることはできない。晋の政権が大夫の手に渡れば、斉も楚も頼りにならない。やがて魯に禍が訪れることになる」
斉も楚も頼りにならないとなれば、魯は晋に服従し続けねばならないが、晋の政権が大夫に渡ったら、貪欲な諸大夫が様々な要求をしてくることになる。すると魯の負担が大きくなることになる。そのため今のうちに韓起と関係を結んで、協力を求めるべきなのだ。
しかし仲孫羯は、
「人生ははかないものであり、誰もが偸を棄てることはできないではないか。朝起きた時に、その日の夕(夜)まで生きられないことを恐れるものだ。無理に韓氏と関係を作る必要はないだろう」
叔孫豹は退出してから知人にこう言った。
「孟孫(仲孫羯)ももうすぐ死ぬ。私は趙武の偸について語ったが、孟孫はそれよりひどい」
叔孫豹は直接、季孫宿に話をしたが、季孫宿も意見を聞くことはなかった。魯は外交的に上手くやってきた国だが、段々と外交面の制裁さを失い始めていた。
叔孫豹の予言通り、後に趙武が死ぬと晋の公室はますます権力を失い、政権は豪奢な大夫の家に移っていくことになる。その中で韓起が政権の中枢に立ったものの、諸大夫を抑えることができず、魯は晋の大夫による要求に苦しみことになる。
また、讒慝(讒言や姦悪を好む小人)も増えたため、晋と諸侯の間で平丘の会を開くことになり、貢賦の軽重について取り決めがされることになる
斉の子尾が閭丘嬰に害されることを恐れて、先に殺そうとした。二人がなぜ対立していたのかはよく分からないが、どうやら閭丘嬰を慕う大夫が多くなってきたことが原因のようである。
子尾は閭丘嬰に魯の陽州(廬邑)攻撃を命じた。魯は兵を出して斉の出兵の理由を問い正した。
五月、子尾は出兵の責任を閭丘嬰に着せて処刑した。
それを受け、工僂灑(工僂が氏)、渻竈(または「省竃」)、孔虺、賈寅(四人とも閭丘嬰の党)が莒に出奔した。
この事件を機に子尾は更に諸公子(子山・子商・子周等)を放逐した。
魯の襄公が楚宮を築いた。楚を朝見した時に王宮を観て模造したくなったようである。
叔孫豹は、
「『大誓(尚書・泰誓)』にこうある『民が欲するところに、天は必ず従わん』主公は楚を欲したが故に楚宮を築かれた。もし再び楚に行かないようならば、この宮で死ぬことになるだろう」
と言った。彼の予見能力は先の事柄を見ても、高いことは確かだが、そう思っているのならば、襄公に対し意見を述べるべきではないのか。だが、それを述べた様子は無い。
魯の公室に対する冷たさを感じる態度である。
六月、彼の言ったとおり、襄公は楚宮で死んだ。
叔仲帯が襄公の喪中のどさくさにまぎれ、襄公の拱璧(大璧)を盗み、御人の懐に隠した。暫くして御人から拱璧を受け取った。
この事件を知った魯人は叔仲帯とその子孫を軽視するようになった。これが礼の国と言われた国の大臣の行動である。自国の民ではなくとも軽視したくなる。
魯は胡女(胡は帰姓の国)・敬帰(襄公の妾)が産んだ子野を即位させようとし、季孫氏の家に住ませた。しかし子野は過度な哀痛のため、身体を壊してしまい。
九月、子野は死んでしまった。更に立て続けに仲孫羯も死んだ。
魯は敬帰の妹・斉帰が産んだ公子・裯(または「稠」)を即位させようとしたが、叔孫豹が反対した。
「太子が死んだ場合、同母弟がいれば、それを立て、いなければ年長者を立て、年が同じならば賢才である方を選び、義(才能・徳)が同じならば、卜を行うのが、古の道です。子野は適嗣(嫡子。太子)ではないのに、なぜ母の妹の子を立てなければならないのでしょうか。そもそも公子・裯は喪に服しても悲しむことはなく、慼(憂。父母が死んだ時の哀しみ)にありながらにこにこしております。不度(不孝)の者は憂患をもたらすもの。もし彼を立てれば、季孫氏の憂いになるだろう」
しかし季孫宿は公子・裯を国君に立てた。これを魯の昭公という。
襄公の葬儀が始まってから、昭公は三回も衰(喪服)を着替えた。昭公が子供のように遊び、新しい衰衽(喪服の襟)もすぐ古い衰のように汚れてしまったためである。
この時、昭公は既に十九歳でしたが、童心を持っているようであった。
君子(知識人)は昭公が善い終わりを迎えることができないと判断した。
十月、滕の成公が襄公の葬礼に参加した。行動は不敬そのものでありながら、涙を多く流した。
子服恵伯が言った。
「滕君は間もなく死ぬであろう。不敬にも関わらず、涙が多すぎる。死所(葬礼の場)で(不祥な)兆しを見せたのだから、襄公に従わなければならないだろう」




