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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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女斉

 呉が越を攻撃して捕虜を得た。捕虜は閽(門を守る官)となり、やがて舟の守備を命じられた。

 

 後日、呉王・餘祭が舟を観察した時、閽が刀で餘祭を刺殺した。


 越人は執念深い人が多い。

 

 寿夢の死後、長子・諸樊、次子・餘祭と継承され、餘祭の後は三子の夷末(餘眛。夷眛)が継いだ。

 

 鄭の子展(してん)が死んだ。


 鄭の上層部はこの状況に頭を抱えた。子展はここまで、宰相というべき地位にいたが、その後を継ぐとすれば順番的には、あの伯有(はくゆう)なのである。国内外に評判の悪いこの男を宰相にするのは、どうかという意見が周りで出た。


 そこで子展の息子である子皮しひに上卿を継がせることにした。


 子産(しさん)は上卿となった彼を見て、


(中々に堂々としている)


 これなら宰相の職務を果たせるだろうと思った。

 

 当時、鄭を飢饉が襲っており、麦の刈り入れ前だったために民が窮乏していた。

 

 子皮は子展の命として(喪中であるため父・子展の名を使って命を発した。もしくは、父が存命の時に飢饉が始まっており、子皮は子展の遺命を発表したとも言われている)、国内の各戸に一鍾(重さの単位。六石四斗)を与えて飢餓の救済とした。


 その結果、罕氏(子罕(しかん)の子孫。子罕は子展の父)が鄭の民心を得て、長く上卿として国政に携わるようになった。

 

 宋の司城・子罕(しかん)楽喜(がくき))がこれを聞いて言った。


「上にいる者が善に近づくことは民の望(願い)である」

 

 宋でも飢饉が起きると子罕は宋の平公(へいこう)に公粟(国の食糧)を貸し出すように請い、大夫にも食糧を出させた。


 子罕は食糧を貧民に貸しても書(契約書)を書かず、大夫に貸し出す食糧がない場合は代わって食糧を提供した。これにより、宋に飢人がいなくなった。

 

 晋の叔向(しゅくきょう)がこれを聞いて称えた。


「鄭の罕氏と宋の楽氏はどちらも長く続き、国政を掌握するだろう。民が帰心しているからだ。しかも、施しを行いながらそれを自らの徳としない点において、楽氏が勝っている。楽氏は宋と命運を共にするだろう」

 

 六月、衛の献公(けんこう)が死んだ。褒められた人ではなく、彼のために多くの人が死んでいる。


 衛の襄公(じょうこう)が即位し、後を継いだ。

 

 杞が淳于に遷都することになった。

 

 晋の平公(へいこう)は母が杞の人であったため、杞の新都ために城壁を築くことにした。

 

 荀盈じゅんえいが諸侯を集め、築城を指揮した。


 魯の仲孫羯ちゅうそんけつ、斉の高止(こうし)、宋の華定(かてい)、衛の大叔儀(たいしゅくぎ)、鄭の子大叔したいしゅく伯石(はくせき)公孫段(こうそんだん))、および曹人、莒人、邾人、滕人、薛人、小邾人が参加した。

 

 子大叔と大叔儀と話をした時、大叔儀はこの晋の要請に対し、愚痴を言った。


「晋君の母のために諸侯を動員して、杞に城を築くというのはひどくはないだろうか?」

 

 子大叔はため息をつきながら、


「仕方がないことです。晋は周宗(周室)の衰弱を心配せず、夏朝の残り(杞は夏王朝の末裔)を守ろうとしているのですから。周室を心配しないのですから諸姫(晋と同姓である姫姓の諸侯)を棄てることもできましょう。しかし、諸姫を棄てたら誰が晋に帰順するというのでしょうか。親戚も大事にできないのであれば、異姓の諸侯が晋に従うはずがございません。同族を棄てて異姓に近づくというのは、徳から離れることだといいます。だから『詩(小雅・正月)』にはこうあります『近親と協調すれば、姻戚もますます親しくなるだろう』晋は近親と親しもうとしないのだから、誰とも友好関係をもてないでしょう」

 

 斉の高止と宋の司徒・華定が晋の荀盈に会いに行った。晋の女斉(じょせい)司馬侯(しばこう))が相礼(大臣が賓客に会う時、補佐する役)を勤める。

 

 賓客が退出してから、司馬侯が荀盈に言った。


「二人とも禍から逃れることができないでしょう。子容は専(専横すること)、司徒は侈(奢侈)です。それぞれ、家を亡ぼす主と言えましょう」

 

 荀盈がその理由を問うと、司馬侯はこう言った。


「専は禍を速めるもの。侈は自分の力が強いことによって逆に倒され、専は他者に倒されるもの。禍はすぐ訪れるでしょう」

 

 平公が士鞅しおうに魯を聘問させた。杞の築城に協力したことを謝すためである。

 

 襄公が宴を開いて士鞅をもてなし、展荘叔(てんそうしゅく)が士鞅に贈るための幣(束ねた帛布)を持った。

 

 当時は宴の後、射礼という矢を射る儀式が行われることがあった。


 天子と諸侯の宴では六耦(六対)、諸侯と諸侯の宴では四耦、諸侯と大夫の宴では三耦がそれぞれ四矢を射ち、最後に主人と賓客が矢を射た。

 

 襄公は三耦(六人)をそろえなければならなかったが、優秀な人材がいなかった。


 そこで私門の家臣からも礼と射術に通じた者が選ばれた。家臣からは展瑕(てんか)展王父(てんおうほ)(または展玉父(てんぎょくほ))が選ばれて一耦(上耦)になり、公臣からは公巫召伯(こうふしょうはく)仲顔荘叔(ちゅうがんそうしゅく)(公巫と仲顔は氏。あるいは、公巫は官名)が一耦(次耦)に、鄫鼓父(かいこほ)党叔(とうしゅく)が一耦(下耦)になった。

 

 魯の公室が衰退し、人材が不足していることを象徴する出来事であった。

 

 その後、平公が司馬・女斉を魯に派遣し、杞田(今までに魯が杞国から奪った土地)を返還させたが、魯が返還した土地が少なかったため、晋の悼公(とうこう)夫人(平公の母)が怒った。


「斉(女斉)の働きを先君が知れば、先君の保護を受けることができないでしょう」

 

 平公がこれを彼に伝えると、こう答えた。


「虞、虢、焦、滑、霍、揚(または「楊」)、韓、魏は全て姫姓ではございますが、晋はこれらの国を滅ぼして大きくなりました。小国を侵さねば、国を拡げることはできません。武公(ぶこう)献公(けんこう)以来、覚えられないほどの国を兼併して参りました。杞は夏朝の残りであり、東夷に属しております。魯は周公の後裔であり、晋と和睦しております。魯に杞を与えることは許されますが、杞を心に留める必要はございません。魯は晋に対して職貢(貢物)を欠かしたことがなく、玩好(玩物)も時を失わずに届けられ、公卿大夫も相次いで入朝し、史書に記録が絶えることはなく、府庫に一月も貢物がないということもございません。それにも関わらず、なぜ魯を痩せさせて、杞を肥えさせるのでしょう。もしも先君が知ることができるのであれば、夫人自身にそうさせる(使者として魯に送る)はずで、わざわざ老臣を用いることはないでしょう」


 当時は女性が外交をすることはないので、夫人が使者になることもありえない。これは暗に「先君も杞国のために魯の地を削るような命令を出すはずはない」と言っているのである。



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