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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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卞邑占領

 紀元前544年


 正月、魯の襄公(じょうこう)が楚に入朝しているため、祖廟での告朔(新しい月が始まった報告)と朝政(朝廷で一月の政務について報告を聴くこと)ができなかった。

 

 楚は前年死んだ楚の康王(こうおう)のために襄公自ら襚(死者に服を着せること。弔問に来た使臣が行う礼)を行うように要求した。


 流石に襄公は困惑していると、叔孫豹しゅくそんひょうが言った。


「殯(霊柩)の不祥を祓い、それから襚を行うのは、朝見において最初に貢物の皮幣を並べて見せるのと同じことです。今回、襚を要求されましたので、まずお祓いをしましょう」

 

 襄公は巫に命じて桃の棒と茢(竹箒)で殯を祓わせた。これは国君が臣下の葬儀に参加した時の礼である。

 

 楚人はそれを禁止しなかったが、終わってからそのことを知り、襄公に襚を行わせたことを後悔した。

 

 四月、康王が埋葬された。魯の襄公、陳の哀公(あいこう)、鄭の簡公(かんこう)、許の悼公(とうこう)が送葬し、西門の外に至った。諸侯の大夫は墓地まで同行した。

 

 楚で郟敖が正式に即位した。王子・()が令尹になる。

 

 鄭の行人・子羽(しう)子産(しさん)に言った。


「これは相応しくありません。令尹が昌盛(国君の地位)を取って代わることでしょう。松柏の下では草は繁茂しません」


 子産も頷いた。

 

 松柏は権力を握る王子・囲んおことを指し、草は幼弱な郟敖を指す。松柏が育つ場所は、土壌が肥えないといわれていた。

 

 襄公が楚から魯に帰国する途中、方城(楚の国境)に至った。その頃、魯国内を守っていた季孫宿きそんしゅくがとんでもないことをしていた。


 本来、魯公室の邑である卞邑を自分の物にしたのである。

 

 また、卞邑を奪う前に季孫宿は公冶(こうち)(季冶(きち))(季孫氏の一族)を派遣して襄公を慰問させる使者として出していたが、公冶が魯を出ると季孫宿は卞邑を占拠し、璽書(印章で封をした書信)を持った使者に公冶を追わせて、公冶の手から襄公に璽書を渡させていた。

 

 公冶は璽書の内容を確認せず、そのまま襄公に渡し、襄公を慰労してから営舎に入った。

 

 襄公が璽書を開くと、こう書かれていた。


「卞を守る者が叛すと聞きましたので、臣(季孫宿)が徒(歩兵)を率い、これを討伐し、既に占拠しました。ここに占拠の事を報告いたします」

 

 襄公は激怒した。


「卞を欲して謀反と偽るとは、私をないがしろにするつもりか」


 怒りのまま公冶をここに呼ぶよう言った。

 

 呼ばれた公冶はこの時、初めて季孫宿が卞を奪った事を知った。


(利用されたのか……)


 自分は季孫氏のために尽くしてきたつもりであった。それにも関わらず、このような愚かな嘘のために利用された。


(怒りよりも悲しいことだ)

 

 その様子を見た襄公は彼は知らなかったのだと悟り、公冶に聞いた。


「私は国に入ることができるだろうか?」

 

 公冶は、


「主公が国を有しておられるのです。誰が主公に逆らうでしょうか」

 

 襄公は公冶の忠心を認めて冕服(礼冠と服飾)を与えようとした。公冶は固辞したが、襄公が強制したため、受け入れた。

 

 だが、この状況に襄公は帰国をためらった。栄駕鵞えいがきが『式微(詩経・邶風)』を歌ったため、魯に向った。


『式微』には「空が暗くなったにも関わらず、なぜ帰らないのでしょうか」


  という句がある。

 

 五月、襄公は魯に帰国した。


 栄駕鵞が諫めたこともあり、季孫宿に対して、処罰は行わなかった。それだけ、季孫氏の勢力は大きく成り過ぎていたのである。

 

 公冶は季孫氏から与えられていた邑を全て返し、


「主公を欺くのに、なぜ私を使われたのか」


 と言って、生涯、出仕しなかった。


 季孫宿が会いに来た時は以前と同じように会話をしたが、いない時は季孫氏に関して話題にすることもなくなった。

 

 後に病にかかって死が近づくと、公冶は家臣を集めてこう命じた。


「私が死んだら、冕服を斂(死者に服を着せて棺に入れること)に使わないでくれ、あれは徳によって賞された物ではないからだ。また、季孫氏に私を葬送させる必要もない」


 彼は生涯、季孫氏を恨み、死んだ。






 この頃、周王室が周の霊王(れいおう)を埋葬した。

 

 当時、簡公は楚に朝見しており、上卿の子展(してん)は国を守っていたため、国君も上卿も霊王の葬送に参加できなかった。


 そこで子展は印段(いんだん)を送ることにした。

 

 それに伯有(はくゆう)が噛みつき、反対した。


「いけません。若すぎます」


 自分が行くべきだという考えも彼の言葉からは見え隠れする。

 

 子展は言った。


「誰も送らないよりも、若くても参加させた方がいいではないか。『詩(小雅・四牡)』には『王に仕えれば、慎重・細緻でなければならず、足を休める暇もない』とある。東西南北、誰が敢えて安寧に居座ろうとしているのだ。晋と楚に服従しているのは王室を守るためである。王事(聘問・朝見・会盟・征伐等、王のために行う事)はまだ廃されていない。常例にこだわっている場合ではないのだ。使者を送って葬礼に参加しなければならない」


 それにお前よりはマシであるという思いも彼にはある。


 印段が周に行った。

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