卞邑占領
紀元前544年
正月、魯の襄公が楚に入朝しているため、祖廟での告朔(新しい月が始まった報告)と朝政(朝廷で一月の政務について報告を聴くこと)ができなかった。
楚は前年死んだ楚の康王のために襄公自ら襚(死者に服を着せること。弔問に来た使臣が行う礼)を行うように要求した。
流石に襄公は困惑していると、叔孫豹が言った。
「殯(霊柩)の不祥を祓い、それから襚を行うのは、朝見において最初に貢物の皮幣を並べて見せるのと同じことです。今回、襚を要求されましたので、まずお祓いをしましょう」
襄公は巫に命じて桃の棒と茢(竹箒)で殯を祓わせた。これは国君が臣下の葬儀に参加した時の礼である。
楚人はそれを禁止しなかったが、終わってからそのことを知り、襄公に襚を行わせたことを後悔した。
四月、康王が埋葬された。魯の襄公、陳の哀公、鄭の簡公、許の悼公が送葬し、西門の外に至った。諸侯の大夫は墓地まで同行した。
楚で郟敖が正式に即位した。王子・囲が令尹になる。
鄭の行人・子羽が子産に言った。
「これは相応しくありません。令尹が昌盛(国君の地位)を取って代わることでしょう。松柏の下では草は繁茂しません」
子産も頷いた。
松柏は権力を握る王子・囲んおことを指し、草は幼弱な郟敖を指す。松柏が育つ場所は、土壌が肥えないといわれていた。
襄公が楚から魯に帰国する途中、方城(楚の国境)に至った。その頃、魯国内を守っていた季孫宿がとんでもないことをしていた。
本来、魯公室の邑である卞邑を自分の物にしたのである。
また、卞邑を奪う前に季孫宿は公冶(季冶)(季孫氏の一族)を派遣して襄公を慰問させる使者として出していたが、公冶が魯を出ると季孫宿は卞邑を占拠し、璽書(印章で封をした書信)を持った使者に公冶を追わせて、公冶の手から襄公に璽書を渡させていた。
公冶は璽書の内容を確認せず、そのまま襄公に渡し、襄公を慰労してから営舎に入った。
襄公が璽書を開くと、こう書かれていた。
「卞を守る者が叛すと聞きましたので、臣(季孫宿)が徒(歩兵)を率い、これを討伐し、既に占拠しました。ここに占拠の事を報告いたします」
襄公は激怒した。
「卞を欲して謀反と偽るとは、私をないがしろにするつもりか」
怒りのまま公冶をここに呼ぶよう言った。
呼ばれた公冶はこの時、初めて季孫宿が卞を奪った事を知った。
(利用されたのか……)
自分は季孫氏のために尽くしてきたつもりであった。それにも関わらず、このような愚かな嘘のために利用された。
(怒りよりも悲しいことだ)
その様子を見た襄公は彼は知らなかったのだと悟り、公冶に聞いた。
「私は国に入ることができるだろうか?」
公冶は、
「主公が国を有しておられるのです。誰が主公に逆らうでしょうか」
襄公は公冶の忠心を認めて冕服(礼冠と服飾)を与えようとした。公冶は固辞したが、襄公が強制したため、受け入れた。
だが、この状況に襄公は帰国をためらった。栄駕鵞が『式微(詩経・邶風)』を歌ったため、魯に向った。
『式微』には「空が暗くなったにも関わらず、なぜ帰らないのでしょうか」
という句がある。
五月、襄公は魯に帰国した。
栄駕鵞が諫めたこともあり、季孫宿に対して、処罰は行わなかった。それだけ、季孫氏の勢力は大きく成り過ぎていたのである。
公冶は季孫氏から与えられていた邑を全て返し、
「主公を欺くのに、なぜ私を使われたのか」
と言って、生涯、出仕しなかった。
季孫宿が会いに来た時は以前と同じように会話をしたが、いない時は季孫氏に関して話題にすることもなくなった。
後に病にかかって死が近づくと、公冶は家臣を集めてこう命じた。
「私が死んだら、冕服を斂(死者に服を着せて棺に入れること)に使わないでくれ、あれは徳によって賞された物ではないからだ。また、季孫氏に私を葬送させる必要もない」
彼は生涯、季孫氏を恨み、死んだ。
この頃、周王室が周の霊王を埋葬した。
当時、簡公は楚に朝見しており、上卿の子展は国を守っていたため、国君も上卿も霊王の葬送に参加できなかった。
そこで子展は印段を送ることにした。
それに伯有が噛みつき、反対した。
「いけません。若すぎます」
自分が行くべきだという考えも彼の言葉からは見え隠れする。
子展は言った。
「誰も送らないよりも、若くても参加させた方がいいではないか。『詩(小雅・四牡)』には『王に仕えれば、慎重・細緻でなければならず、足を休める暇もない』とある。東西南北、誰が敢えて安寧に居座ろうとしているのだ。晋と楚に服従しているのは王室を守るためである。王事(聘問・朝見・会盟・征伐等、王のために行う事)はまだ廃されていない。常例にこだわっている場合ではないのだ。使者を送って葬礼に参加しなければならない」
それにお前よりはマシであるという思いも彼にはある。
印段が周に行った。




