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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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富に満足した者の運命は

 斉の荘公(そうこう)が公子・()とその余党を討伐した時、諸公子たちは各地に逃走した。公子・(しょ)は魯に、叔孫還(しゅくそんかん)は燕に、公子・(ばい)は句瀆の丘に逃れた。

 

 慶氏が亡命すると、斉は諸公子たちを呼び戻し、器用(生活や祭祀に使う器物)を与えてそれぞれの邑を返した。

 

 斉の景公(けいこう)晏嬰(あんえい)に邶殿(斉の大邑)の境にある六十邑を与えようとしたが、晏嬰は辞退した。


 それに疑問を覚えた子尾(しび)が言った。


「富とは人が欲するものです。それにも関わらず、あなただけはそれを欲しないのでしょうか?」


 自分だけが正しくあろうとしているのですかという問いかけでもある。

 

 晏嬰が答えた。


「慶氏の邑は欲を満足させるに充分だったため、慶氏は亡命することになったのです。私の邑は、欲を満足させるには足りません。しかしながらこれに邶殿を加えれば、欲を満足させることができます。欲を満足させれば、亡命が近くなり、亡命して外に住むようになれば、一邑を擁することもできなくなります。邶殿を受け取らないのは富を嫌うからではなく、富を失うことを恐れるが故でございます」


 自分が慶封と同じようになりたくないからであって、自分だけが正しくあろうというつもりはないのである。


「そもそも富と申すものは、布帛に幅の決まりがあるのと同じです。その決まりを変えることはできません。民は生活が豊かになり、器物が便利になることを願っておりますので、徳を正し、制限を作り、過不足がないようにしているのです。これを幅利(利を規制すること)と申します。利が過ぎればかならず失敗することになります。私が多くを貪らないのは、幅利のためです」

 

 景公は北郭佐(ほくかくさ)に六十邑を与えた。北郭佐は全て受け入れた。

 

 子雅(しが)に邑を与えると、子雅は多数を辞退して少数だけ受け取った。

 

 子尾(しび)に邑を与えると、子尾は全て受け入れたものの、その後、返還した。

 

 景公は子尾の態度から忠臣と認めて寵信するようになった。

 

 また、盧蒲嫳は慶封の党として北の国境に追放された。崔杼(さいちょ)を滅ぼしたまでは良かったのだが、慶封を滅ぼさず、組んでしまったことが彼の罪となった。殺されなかっただけ恩情と見るべきであろうか。

 

 次に景公は崔杼の死体を探した。死体に刑を加えるためである。しかし、一向に見つからなかった。

 

 それを聞いた魯の叔孫豹しゅくそんひょうが言った。


「崔杼の死体は必ず得ることができるだろう。武王(ぶおう)には国を治める臣が十人いた」


 文母(ぶんぼ)周公(しゅうこう)太公(たいこう)召公(しょうこう)畢公(ひつこう)栄公(えいこう)大顛(たいてん)閎夭(びんよく)散宜生(さんぎせい)南宮适(なんきゅうかつ)の十人。


「崔杼にそのような者たちがいただろうか。十人いなければ葬儀はできないままであろう」


 聖人の武王はそのような臣が十人いたから天下を得ることができた。一方の崔杼は罪人であるため、下に集まる臣下に徳がなく、そのような臣下がたとえ十人集まろうとも天下を取ることはできず、しかし十人いれば葬儀はできる。


 崔杼にはその十人すら集まっていないため、崔杼の葬儀は行われていない。そのため死体はまだどこかにあるはずであるということである。

 

 暫くして崔氏の臣だった者が名乗り出た。


「私に拱璧(大璧。崔杼の宝物)を下さるのであれば、柩(崔杼の棺)を献上しましょう」

 

 崔杼の死体が朝廷に送られた。

 

 十二月、斉人は荘公の改葬を行うため、その棺を大寝(正室)に置いた。

 

 また、崔杼を晒すため、棺を市に置いた。死体はまだ元の姿を保っていたため、国人は死体が崔子だと確認できたという。

 











 少し話をさかのぼる。

 

 十一月、宋の盟に従い魯の襄公(じょうこう、宋の平公(へいこう、陳の哀公(あいこう、鄭の簡公(かんこう、許の悼公(とうこうが楚に朝見に行った。

 

 襄公が鄭を通った際、簡公は既に楚に向かっていたため、不在であった、そのため伯有(はくゆう)が黄崖で慰労した。しかしながらその態度が不敬であったため、同行していた叔孫豹が言った。


「伯有が鄭で罪を得ることがなければ、鄭は必ず大咎を受けることだろう。敬とは民の主である。それを棄ててどうして祖宗を継ぎ、家を守ることができるのか。鄭人が彼を討たなければ、禍を受けることになる。済沢の阿(水辺の崖)や行潦(道の水が溜まった場所)に生える蘋・藻(どちらも水草)は宗室に置かれ、祭祀で使われ、季蘭が尸(祭尸。神や死者の代わりに祭祀を受ける者)になるのは敬である。敬を棄てていいはずがない」


 彼の言葉は『詩経・召南・采蘋』を引用したものである。


 神に仕えることが敬であり、それを疎かにしてはならないというものである。

 

 十二月、諸侯が漢水に至った時、楚の康王(こうこう)が死んだ。

 

 康王の死を知った襄公は退き返そうとしたが、叔仲帯しゅくちゅうたいが言った。


「我々は楚のために来たのです。一人(康王)だけのために来たのではないのです。行くべきです」

 

 子服恵伯(しふくけいはくが言った。


「君子は遠慮(遠謀)があり、小人は近くに従うと申します。目先の飢寒を考慮することもできないのに、後の事を考えている暇がありましょうか。とりあえず帰るべきです」

 

 叔孫豹がそれに反対した。


「叔仲子の言こそ用いるべきです。子服子はまだ学び始めたばかりであるため、見識が足りません」

 

 栄駕鵞(えいがえい)(叔肸の曾孫。叔肸は宣公(せんこう)の弟)が言った。


「遠くを図る者こそ忠臣でございましょう」

 

 襄公は楚に行った。


 一方、宋の向戌(しょうじゅつ)は平公にこう言った。


「我々は一人(康王)だけのために来たのです。楚のためではございません。自分の飢寒を考慮することなく、楚のことを考える余裕がありましょうか。とりあえず帰国して民を休ませ、楚が新君を立ててから備えを考えればよろしいではありませんか」

 

 平公は引き上げた。

 

 楚では康王の子・(うん)(または「麏」「麇」)が立った。これを郟敖という。

 

 更に楚の令尹・屈建(くつけん)も死んだ。そのため晋の趙武ちょうぶが同盟国と同等の礼で弔問した。

 

 


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