歳星
楚の薳罷が晋に行って盟を結んだ。晋は彼を歓迎し、宴を開いた。
薳罷は帰国する時、『既酔(詩経・大雅)』を賦した。
「既に美酒に酔い、その徳に満たされる。君子の万寿を願い、あなたの大福を祈ろう」
という内容である。晋の叔向が言った。
「薳氏は楚で長く存続するだろう。君命を受けながらも敏(鋭敏、聡明)を忘れなかった」
宴に感謝しつつ、晋君の長寿も願い、去る時に相応しい詩を賦したことが、時宜にかなっており、聡明であると評価したのである。
「子蕩(薳罷の字)はやがて政事を行うことになる。敏によって主君に仕えれば民を養うことができる。政権が彼から逃げることはないはずだ」
二年前に斉で起きた崔氏の乱(斉の荘公が殺された事件)で申鮮虞が魯に逃げて来た。申鮮虞は野(郊外)で人を雇って荘公のために喪に服していた。
冬、楚は彼の存在を知ると、人を送って申鮮虞を召した。申鮮虞はそれに応え、楚に入ると楚は彼を右尹に任命した。
紀元前545年
春、魯で氷がはらなかった。
魯の大夫・梓慎が言った。
「今年は宋と鄭を飢饉が襲うだろう。歳星(木星)が星紀にいるはずにも関わらず、既にそこを越えて玄枵にいる」
星紀と玄枵は歳星が運行する道を十二分した時の位置の名称のことである。
天道は降婁・大梁・実沈・鶉首・鶉火・鶉尾・寿星・大火・析木・星紀・玄枵・娵訾に分けられた。
「天の時が正しくなければ災害が起きるもの。だから陰が陽に勝てないのだ」
陰は寒冷の冬を表し、陽は温暖な夏を象徴する。氷ができないというのは陰が陽に負けていることを意味する。
「蛇が龍に乗っているが、龍は宋と鄭の星だ」
歳星は木星のことで、木徳を象徴する動物は蒼龍である。玄枵は女・虚・危の三宿にあたり、虚と危は蛇を意味する。歳星が玄枵で失速して虚宿や危宿の下に現れたため、蛇が龍に乗っていることになると言ったのである。
また、龍は宋、鄭の星と言っているが、古代においては、中国全土に宿星があてはめられていたのである。
「故に宋と鄭は必ず飢える。玄枵は虚宿(虚は何もないこと)が中心にあり、枵は消耗するという意味である。土が虚ろになり民が消耗すれば、飢えないはずがない」
夏、斉の景公、陳の哀公、蔡の景公、北燕の懿公(恐らく)、杞の文公、胡君(胡は帰姓の国)、沈君と白狄が晋に入朝した。
前年の宋の会盟を確かめるためである。
斉の景公が国を出ようとした時、慶封が止めた。
「我々は盟に参加しておりません(斉と秦は弭兵の会盟に参加していない)。それにも関わらず、なぜ晋に入朝するのですか」
陳須無は何を言っているのだろうという表情を浮かべながら、慶封に言った。
「先に大国に仕えることを考え、それから財貨について考えるというのが、礼というもの。また、小国が大国に仕える際、会盟に参加していなくても大国の志(意志)に従うのが、礼というもの。たとえ今回の盟に参加していなくとも、晋に背くことはできず、重丘の盟を忘れてはならないではないか。あなたは主公に出発するよう勧めるべきであろう」
慶封が納得したように頷くのを見ながら彼は、
(無能なのも考えものよ)
内心、そう考えた。
衛が甯氏の党を討伐したため、石悪が晋に出奔した。
衛人は石悪の従子(兄弟の子)・圃を後継者に選び、石氏の祭祀を継がせた。
魯の仲孫羯が晋に行った。宋の盟を守って楚に入朝することを報告するためである。
蔡の景公が晋から帰る途中、鄭に入った。
鄭の簡公が彼を宴を開いてもてなしたが、景公は不敬であった。
鄭の子産はそれを見て、
「蔡君は禍から逃れることができないだろう。以前(晋に入朝する時)、彼がここを通ったため、国君は子展を送って東門の外で労ったが、蔡君は傲慢な態度であった。私は時が経てば改められると思ったが、今回帰国する際も、享(宴の礼)を受けながら怠惰であった(礼を失した)。これは彼の心(本性)というべきものだ。小国の主君として大国に仕えながらも、惰傲を心としていれば、死から逃れることができない。そしてそれは自分の子によってもたらされるだろう。彼は国君であるが、淫乱で父らしいことをしていないからだ。このような者はしばしば子によって禍を受けるものである
蔡の景公が晋に朝見した頃、簡公が游吉(子大叔)を楚に派遣して聘問させた。しかし游吉が漢水に至ると、楚人が游吉を帰らせてこう言った。
「宋の盟には国君が自ら参加したにも関わらず、今回はあなた(大夫の游吉)が来た。我が君(楚の康王)はとりあえずあなたに帰国を命じ、馹(駅車)を駆けさせて晋に問うことにした」
国君自ら入朝するべきかどうかを確認の使者を送るということだが、国君自ら来ないのは、どういうことかと言っているのである。
游吉は怒りを露わにしながら、
「宋の盟において、貴君の命は小国の利となり、それによって社稷を安定させ、民・人を鎮撫させ、礼によって天の福禄を受け入れることになられた。それは貴君の憲令(法令)であり、小国の願いでもありました。今回、我が君が私に皮幣(礼物)を奉じさせたが、これは近年難が多いため、下執事(楚の官員)を聘問させたのです」
鄭では、魯の大夫・梓慎の予言が的中し、この年は飢饉に襲われていた。
「しかし今、執事(楚君)はこう命じられた『汝(游吉)はなぜ政令に関与するのか(大夫の身であるのに、なぜ朝見に来たのか)。汝の国君(鄭君)に国土と守りを棄てさせ、山川を越え、霜露を犯し、君心(楚君の心)を満足させるべきである』と、小国は貴君を望としているので(貴国の恩恵を望んでいるので)、命に背くことはございません。しかしながら盟載の言に背けば君徳を損ない、執事(楚君)の不利になることを、小国は恐れております。そうでなければ労苦を嫌うことはございません(鄭君自ら入朝します)」
游吉は帰国して簡公に報告した。
その後、子展に言った。
「楚君はもうすぐ死ぬでしょう。政徳を修めず、諸侯の進奉を貪い、自分の願望を満足させようとしています。長寿を求めても得ることはできないでしょう。『周易』では『複』が『頤』に変わるという卦があり、『迷復(道に迷って帰ること)は凶』と言われております。これは楚君のことを言っているのでしょう。願望を実現させようとしているにも関わらず、その本(徳を修めること)を忘れれば、帰る場所がなくなります。これが『迷復』というもの。凶でないはずがありません。国君が楚に赴き、楚君の葬儀に参加して帰れば、楚は満足するでしょう。楚は約十年の間、諸侯を恤すことができないでしょう(覇を称えることができないでしょう)。その間、我が国は民を休めることができましょう」
裨竈が言った。
「今年は周王と楚君が死ぬ。歳星が本来、いるべき場所を失い、明年の位置に移動して鳥・帑を害している。これは周と楚が嫌うことである」
鳥は朱鳥・朱雀、帑は鳥の尾を表し、それぞれ天体の鶉火と鶉尾を意味し、周と楚にあたる。
九月、鄭の游吉が晋に行き、宋の盟に従って鄭君が楚に入朝することを報告した。
子産が簡公の相(補佐)となり、楚に入った。
当時の諸侯は、他国に入った時、郊外で草を除いて壇を築いた。郊労(慰労)を受けるためである。しかし子産は壇を築かず、舍(帳)だけを作った。
これに外僕(官名。舎や壇の担当)が咎めた。
「かつて先大夫が先君の相として四国に行った際、壇を造らなかったことはございませんでした。今に至るまでそれは変わっていません。草を除かず舍しか作らないのは、相応しくないのではないでしょうか」
子産はこれに答えた。
「大国が小国に行く時は壇を作るが、小国が大国を訪問する時は、舍だけで充分なのだ。大国が小国に行く時は五美(五つの利)があるという。大国は小国の罪に寛大になり、過失を赦し、災患を救い、徳刑(徳と刑法)を賞し、至らないことがあれば教えるもの。そのおかげで小国は困窮せず、家に帰るように大国に服すのである。だから壇を築いてその功を明らかにし、後人が徳を怠らないようにした。逆に小国が大国に行く時は五悪がある。大国はその罪を解釈し(大国の罪を粉飾し)、大国が不足している物を求め、小国に大国の政事を支持するように求め、職貢(貢物)を納め、時命(随時発せられる命)に従わせる。そうしなければ大国の福(吉事)を祝福する際も、凶(葬事)を弔問する際も、幣帛(財礼。貢物)を重くされるからだ。これらは全て小国の禍である。壇を作って禍を明らかにする必要はないではないか。子孫に禍を称揚することはないのだから」




