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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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崔氏滅亡

 斉の崔杼(さいじょ)には(せい)(きょう)という子が産まれたが、暫くして妻を失った。


 後に東郭姜(とうかくきょう)(東郭が氏。姜は姓。かつての棠姜(とうきょう))を娶って(めい)が産まれた。


 東郭姜は前夫・棠公(とうこう)との間に産まれた子・棠無咎(とうむきゅう)を連れて崔氏に入り、東郭偃(とうかくえん)(東郭姜の弟)と共に崔氏に仕えさせた。


 このような特殊な状況の家というものは大抵後継者問題が発生するものである。


 崔成は病があったため後継者を廃され、崔明が後継者にするということになった。崔成は引退して崔の地に住むことを願った。


 後継者になれなくても家の宗廟を守る役目に着きたいと思ったのである。


 彼を哀れんだ部分もあり、崔杼はそれに同意した。しかし東郭偃と棠無咎が反対した。


「崔地は宗邑(宗廟がある場所)です。宗主(崔明)が住むべきところでございます」


 それを知った崔成と崔彊の兄弟は怒った。自分たちの家を彼らが乗っ取るつもりなのだと思ったのと、やがて自分たちを害することになると考えたからだ。


 東郭偃等を倒す計画を練り、その相談のため慶封(けいほう)の元に出向いた。彼らはどうにも政治家向きではない。


「父上のことはあなたも存じておりましょうが、棠無咎と東郭偃のことしか聞かず、父兄(年長者)の言も聴こうとしません。父上を彼らは害することになるのではないかと心配なので報告に参りました」


 慶封は彼らを優しくもてなしながら言った。


「汝等はとりあえず帰りなさい。私が方法を考えてみようではないか」


 二人は喜び、帰って行ったが、彼らは自分たちの行動が致命的な行動であることを知らない。自分の家の後継者問題という弱みを伝えた挙句、他家を介入させようというのである。


 慶封は盧蒲嫳にこの事を話した。盧蒲嫳(ろほへつ)は斉の荘公(そうこう)に重用されていた盧蒲癸(ろほき)の親類である。


 そのため荘公が殺されてから政権を握っている崔氏と慶氏に怨みを抱いている。そこで盧蒲嫳はこう言った。


「彼は国君(荘公)の讎と申すもの。天が彼を棄てたのでしょう。彼の家が乱れることを、あなたが心配する必要はありません。崔氏が薄くなれば慶氏が厚くなります」


「うむ、その通りにしよう」


(陳氏に言われて、この男を招いたのは良かった)


 そう陳須無(ちんしゅむ)の勧めで、彼を招いたのである。


 後日、崔成と崔彊が再び慶封に相談に来た。慶封は、


「彼に利があるというのであれば、彼等を排除するべきだ。難しいようであれば、私が汝等を助けよう」


「感謝します」


 二人は感謝するのを見ながら彼はほくそ笑んだ。


 九月、崔成と崔彊が崔氏の朝(外朝。古代は諸侯も大夫も内朝と外朝があった。外朝は政務を行う場所のこと)で東郭偃と棠無咎を襲い殺した。


 崔杼は怒り狂って、部屋を出たが、近侍は皆逃走しており、馬車の用意もできない有様であった。


 そこで圉人(馬を養う官)を見つけて馬車を準備させ(本来、圉人の仕事ではない)、寺人(宦官)に馬を御させた。


 崔杼は天に向かって、叫ぶ。


「崔氏に福があるというのであれば、禍は私の身だけで収まれ、私一人が死ぬのは良いが、崔氏は滅びるな」


 自分の才覚で国家の宰相にまで上り詰めた男の言葉とは思えない。


 家を出た崔杼は慶封を頼った。自分の才覚と政治経験に自信を持っていた男が他者を頼るほどまで追い込まれていた。


 慶封は彼の手を取って、


「崔氏と慶氏は一家と同じようなもの。彼等はなぜこのようなことをしたのでしょう。あなたのために討伐しましょう」


 彼は盧蒲嫳に甲士を率いさせ、崔氏を攻めさせた。


 急に慶氏の兵が襲い掛かってきたことに驚いた崔氏の家衆は壁を高くして慶氏の攻撃に抵抗する。


 そのためなかなか攻略できなかったが、やがて斉の国人たちが盧蒲嫳を助けるために兵を動かし始めた。








「坊っちゃん。どうやら今日で崔氏は滅びるようですよ」


 晏父戎(あんほじゅう)はその様子を見ながら言う。


「そのようですね」


 晏嬰(あんえい)は素っ気無く答えるだけであった。


(崔杼は本当に相手すべき相手を相手にしなかった)


 彼は国人たちの動きを煽っている者がいると思っている。


(社稷を汚さぬのであれば良い。だが……)


『崔杼殿はどういう方ですか?』


かつて晏嬰は父・晏弱(あんじゃく)に聞いたことがあった。


『崔杼殿は優秀な人だ。だが、愛が深い方でもある。自分に対しても、他者に対してもな。それが崔杼殿の唯一の欠点だ」


 そんな父の言葉を思い出しながら彼は晏父戎の方を向き、


「一つ頼みがあります」







「ふむ、これであの崔氏も終わるか」


 陳須無は国人たちの様子を見ながら、ほくそ笑む。


「参加しますか?」


 陳無宇(ちんむう)がそう尋ねると彼は首を振り、


「これ以上、手を出すこともあるまい。後は彼らに任せれば良い」


 にやりと彼は笑った。


 国人たちの攻撃をあってついに崔氏は滅び、崔成と崔彊は殺され、家財も人も奪われた。


 崔杼の妻である東郭姜はこの状況に絶望し、首を吊って死んだ。


「全て終わりました」


 盧蒲嫳が報告する。


「これでもう心配はしなくともよろしいと思いますよ。崔杼殿」


「感謝します」


 崔杼の様子に慶封は頷く。


「盧蒲嫳よ。崔杼殿を屋敷へ」


「承知しました。では、こちらへ」


 二人が退出すると吹き出すように慶封は笑い出した。


「なんだこれは」


 屋敷に戻った崔杼は唖然とした。そこには、ボロボロにされた屋敷と多くの兵が倒れこんでいた。


「どういうことだ。一体何が……」


 頭では理解している。慶封に騙されたのであると。しかし、目の前の現実を受け入れることができないでしいた。


「妻は、妻はどこにいる」


 彼はボロボロになった屋敷に入るとそこには首を吊った妻の姿があった。


「あ、ああああ」


 崔杼は全てを失った。妻も家も財産も息子も家臣も全てを失ったのであると理解し、声を上げるしかなかった。


「もう終わりだ。せめて妻と同じところへ」


 彼は妻を追って首を吊った。


 斉において、権力を握った男の最後とは思えない最後であった。


 崔杼という人は才覚としては中々のものを持っていた人であった。しかし、権力欲と自己愛があり過ぎた。その結果、この最後となったのである。


 







「崔氏はもはや滅んだようなものでございますが、しかしながら崔杼とその息子の崔明の遺体が見つかっておりません」


 慶封に盧蒲嫳が伝えたが、彼は特に気にしてはいなかった。


「そうか。まあ、見つからないのであれば、良いのでは死んだのは確かなはずだ。まあ崔杼にも忠臣がいたのであろう」


「良くありません。こういうものはしっかりと始末を付けねば、後々厄介なことになります」


「ふむ。わかった。捜索を続けよ」


 こうして一日中、捜索が続けられたが、見つからなかった。


 実は崔明は夜の間、大墓(群墓)に隠れていたのである。彼はまだ若いため、傍には世話役もいた。


「やっと見つけた」


 崔明と世話役の後ろから男の声が聞こえたため、世話係は崔明を隠すように後ろに寄せる。


(だが、逃げることは無理だ。この男明らかに武人である)


所詮、自分は一介の臣に過ぎない。


(それでも若様を殺させるわけにはいかない)


「私は崔氏に仕えました左丘信(さきゅうしん)と申し上げる。名のある武人とお見受け致し、お頼み致したい。願わくは我が命と引き換えにこの方の命ばかりは許していただきたい」


左丘信は必死に男に請うた。男はそれを見て、頭をかきながら言った。


「心配するな私はお前たちを捕らえに来たわけではない」


 男はそう言いながら近づく。


「我が主の命でな。お前たちを国外へ逃亡する手助けをしろとのことだ」


「本当ですか?」


「本当だとも」


 男は世話役の言葉に頷きながら指を一本上げる。


「正し、条件がある。それは、父親のことは忘れ、復讐も考えるなということだ。他国に利用されるようなことがあってもだめであるからな。名を隠して生きること。それが条件だ」


 世話係は難しい顔をしたものの、


(確かにその通りではある)


「承知した」


幼き主を守るためであるならと同意した。


「それで良い。お前は良い臣下だ。これからはお前がその者の親代わりになってやれ」


 男は静かに笑うと二人を探し回る兵たちから隠しながら国境へと案内した。


 崔明は魯に奔走した。


「やれやれ。坊ちゃんの願いとはいえ、骨が折れたものだ」


 男は見送りながらそう呟いた。








 その後、慶封が斉の国相となり政権を握った。


「さあ、才人は去り、愚人が宰相となった。続くかどうか」


「続かないでしょう」


陳須無と陳無宇はその様子を朝廷で見ながら言う。


「その通りだ。あの男は政治においては無能に等しいからな。しかも崔杼とその息子の崔明の遺体を見つけられぬ無能であるからな」


「生きていることは無いでしょう」


「無宇よ。世の中というものは何が起こるかわからないものだ。自分が警戒していないものに足元を掬われることもある。潰せるものは潰しておかねばならん」


陳須無は息子を窘めるように言った。


(もはや警戒すべき存在はいない。例え、崔氏の子が生きていたとしても何もできまい)


それが陳無宇の考えであった。そんな息子に対し、陳須無はある男を指さす。


「例えば、あの男とかな」


彼が指さした先には、小さな体の男がいた。


(晏嬰……)


陳無宇は歯をかみしめた。


「おや、あれは陳氏の親子。またこちらを見ておりますよ。まさかばれましたかね」


「いえ、それは無いでしょう」


晏嬰は晏父戎にそう言いながら、陳無宇を横目で見る。


『父上、陳無宇殿はどういう方ですか?』


『良い男だ。その父親はどうにも苦手だがね。陳無宇殿は若いが聡明で、人当たりが良い。そのうち、高位の地位には至るであろう』


(父上に認められていたのに、何を気にしているのか……)





 




魯にやってきた左丘信は崔明を背中に背負いながら、魯のある村に至った。


(変に人の目に隠れるような真似をしてはならない)


そういう思いがある彼は堂々としながら近所の人たちへ移住する上でのあいさつ回りをした。


(捕まる確率を考えれば、私のやっていることは間違えかもしれない。だが、若様の生涯を考えれば、そのような生き方は悪影響を与えかねない)


「近くに引っ越してきたものでございます」


「おお、左様ですか」


何人か回った後に挨拶に行った家は他の家よりも小さく貧相であった。


(それにしては大きな男だな)


その家から出てきた男はびっくりするほど背が高かった。


「私は孔丘(こうきゅう)と申します」


背の高い男は孔丘と名乗り、拝礼する。


「私は左丘信と申す」


彼も同じように答える。


「その背におられるのは、ご子息でしょうか?」


「はい、名は明と申します」


すると、背中に背負わされている崔明……いや、左丘明(さきゅうめい)は笑った。


後に『春秋左氏伝』、『国語』を書いた人物と言われた人物である。




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