鄭の宴
章題を変えました。以前の『名宰相の時代』は第九章の章題になります。
弭兵の会の後、鄭の簡公が垂隴(鄭国境)で会盟から帰る趙武を宴に招いた。
子展、伯有、子西、子産、子大叔)、二子石(印段と公孫段)が簡公に従った。
趙武が言った。
「七子が鄭君に従っていることは、私にとってとても光栄なことです。鄭君の恩恵を完成させるためにも、それぞれ詩を賦してください。私が七子の志を見てみましょう」
そこでまず子展が『草蟲(詩経・召南)』を賦した。
「君子にお会いするまで、憂うばかりであったが、君子に出会って交わりを得てからというもの、心が穏やかになった」
という内容である。君子は趙武を指す。
趙武は、
「素晴らしい。まさに民の主と言えましょう。しかし私には、君子になる力量がございません」
次に伯有が『鶉之賁賁(鶉之奔奔。鄘風)』を賦した。
衛の宣姜の淫行を風刺する詩と言われており、
「品行が悪い彼を兄とする必要はありません」や「彼を主とする必要はないでしょう」
という句がある。これは簡公に善行がないことを暗に非難している。
趙武が言った。
「床の上の話は門を出てはならないと申します。野外ではなおさらです。これは人に聞かせることではございません」
『鶉之賁賁』の詩は宣姜の淫行に関する詩と言われているため、趙武はこう言ったが、実際は国君の恥を外で語るべきではないという意味である。
次に子西が『黍苗(小雅)』の第四章を賦した。
召伯が謝邑の建築をする際の様子を描いた内容で、
「謝邑の建築は急を要するため、召伯がこれを経営し、軍旅は武威を奮い、召伯がこの任務を完遂する」
という句である。趙武を召伯に喩えている。
趙武が謙遜して、
「我が君(晋の平公)がおられます。私に何の力があるでしょうか」
次に子産が『隰桑(小雅)』を賦した。
「君子に会うことができた。なんと楽しいことであろうか」
という句がある。趙武は、
「その詩の末章を受け入れてくださいませ」
末章には、
「心中で彼を愛する。なぜそれを言わないのでしょうか。心中に想いを隠す。いつの日か忘れることがあるというのか」
というもので、趙武はこの句を子産に贈った。
次に子大叔が『野有蔓草(鄭風)』を賦した。
「偶然にもあなたに会うことができた。私の願いをかなえることができた」
という句がある。
「あなたの恩恵によるものでございます」
次に印段が『蟋蟀(唐風)』を賦した。
「過度な喜びなどは必要なく、頻繁に思考する。娯楽を好むものの、荒淫にならず、良士は常に恐れ戒める」
という句である。
趙武は称えた。
「すばらしい。家を保つことができる主です。望みがある言葉と言えましょう」
次に公孫段が『桑扈(小雅)』を賦した。
君子は礼があるが故に天の助けを受けることができるという内容である。
趙武は頷き、
「驕ることがなければ(『桑扈』の一部です)、福が逃げることはなく。この言を守ることができれば、福禄を辞退しても福禄が自らやってくるものです」
宴が終わってから、趙武は叔向に言った。
「伯有は近々殺されるでしょう。詩とは志(心意)を表すものであり、彼の志は上を誣告し、怨んでいる。しかもそれによって賓客に栄を与えようとしたのだから(賓客を立てようとしたのだから)、長く続くはずはありません。幸い死なないにしても、亡命することになりましょう」
「その通りです。また、彼は驕侈でもございますので。、五年ももたないでしょう」
「その他の者は皆、数世に渡って家を保つことができる人たちでありました。中でも子展は最も長く残るでしょう。上にいながら降ることを忘れておりません。印氏はその次です。楽しんでも荒淫に陥ることがない。楽によって民を安定させ、不淫によって民と接するのだから長く続くはずです」
ここまで彼は鄭の人物への評価を自分の言葉で趙武はしている。しかしながらどうにも子産に対しては素っ気無い部分を感じる。
詩の末章を持って、子産の詩に答えていたものの、他の者たちと比べると距離を感じるのは何故だろうか?
「子産殿。趙武殿は見事な人ですね。とても言葉使いが丁寧で、知識もある方です」
「ええ、あの人はまさしく天下の宰相と言うべき人です」
子産と子大叔は趙武を称えた。
「残念ながら伯有が余計なことをしました」
「ほっとくしかありません。いずれ、自滅する方ですから」
鄭の恥を見せて知ったことは残念であるが、相手がそれに対して、どうこうしないのであれば、それはそれで良く。それは相手も理解していることである。
「あの方は……人の美しさを誰よりも理解している方です。人への賛美者と言うべき人だ」
穏やかにして人への優しさの塊の人である。そんな人がいる間は大戦はもう起きることはないだろう。
「だからこそ、私たちの働きがなりより重要になっていきます」
「そうですね」
子大叔が頷くのを見ながら子産は思う。
(そのためにも必要なことがある。しかしながらそれを行うことはまだ、早い)
それはとても非難される行為でもある。それでもやらねばならない。子産はそう思いながら仕事に戻った。
その頃、宋の平公に対し、宋の左師・向戌が弭兵の功績による賞賜を求めていた。
「死をまぬがれることができましたので、邑をいただきたい」
失敗したら死刑になる恐れもあった大任を自分は成し遂げたのだからご褒美が欲しいという厚かましさがここにある。
平和条約の締結に貢献したのだから確かに彼の功績は評価されるべきものではある。しかしながらそれが自分の利益のためにやるということがどれだけその功績に泥を塗る行為なのかを彼は理解していない。
結局、人はこうであると言われてしまえば、それまでであるが……
平公は邑六十を向戌に与えることにした(恐らく夫人の棄の助言もあっただろうと思われる)。
その文書を司城・子罕に見せた。
子罕はその文書と与える理由及び、その経緯を知るや鼻で笑って言った。
「小国の諸侯に対して、晋も楚も兵(武力)によって威を示すが故に、小国はそれを恐れて上下が慈和し、慈和することで国家を安靖にできたのである。大国に仕えるために小国は存続できるのだ。脅威がなくなれば驕慢になり、驕慢になれば乱を生み、乱が生まれたら必ず滅びる。天は五材(金・木・水・火・土)を生み、民はそれを併用しており、一つも欠けてはならない。誰が兵(武器)を排除しても良いと言うのか」
武器は金属と木で作られている。金属の鋳造には火と水を使う。その武器を使って土地を争うため、武器は五材全てに関係していることになる。
「兵(武器)が誕生して久しく、不軌(礼に外れた者)に威を与えて文徳を明らかにしてきた。聖人は兵によって興り、乱人は兵によって廃されたのだ。廃興存亡、昏明の術(策略)は皆、兵によるものである。しかしながらあなたはそれを除こうとしている。これは誣(欺瞞)というもの。誣道によって諸侯を覆うことほど大きな罪はない。大討(大きな咎。死罪)を受けていないからといって、逆に賞を求めるとは、無厭(満足を知らないこと)の極みである」
子罕は簡(木簡か竹簡)に書かれた文字を削って地に投げ捨てた。
彼は向戌の行為から見える偽善を大いに批難したのである。
これを受け、向戌は邑を辞退した。
だが、向氏の衆人はこのことを知ると子罕を攻めようとしたが、向戌が止めた。
「私が亡ぼうとした時、彼は私を守ってくれたのだ。これ以上大きな徳はないにも関わらず、皆はなぜ攻撃しようとするのか」
この態度は見事と言うべきものである。彼は己の不明を恥じることができ、私怨をもって仕返しもしなかった。
彼の態度は中々できるようで、できない。それができる人である彼は宋の誇れる人物の一人であることは確かである。




