第二次弭兵の会
宋の左師・向戌は晋の趙武とも楚の令尹・子木とも仲がよかった。そのため諸侯の戦争を中止させることで名を成そうとした。
そこでまず晋に行き、趙武に和平を相談した。
趙武が諸大夫と謀ると、韓起が言った。
「兵(戦)とは民の残(民に害を与えるもの)であり、財貨の蠹(木等を蝕む虫)であり、小国の大災と申せます。誰かが弭(停戦)を主張すれば、たとえ実現できないことだとしても、同意しなければなりません。我々が同意せず、楚が同意すれば、楚が諸侯を糾合し、我々は盟主の地位を失うことになりましょう」
晋は和平に同意した。
向戌が楚に行くと、楚も同意した。
斉に行くと斉人は難色を示した。
しかし陳須無が言った。
「晋も楚も同意したのです。我が国だけ同意できないのはなぜでしょう。人が弭兵(停戦)を提案しているのに、我々が反対すれば、民の離心を招くことでしょう。そうなれば我々はどうして民を用いることができるのでしょう」
彼の言葉によって、斉も同意した。民はこの発言を知ると陳須無の名声が上がった。
「陳氏様は我らの味方でありますなあ」
「その通りだわあ」
「陳氏様のところは住みやすいとも聞くぞ」
(民に優しいのは陳氏である)
そのような感情が民は抱くようになっていた。
「民の味方は陳氏。良い響きよ。のう無宇」
「ええ、そうですね」
陳無宇は頷くのを見ながら、陳須無は言う。
「民の敵も作らねばなあ。のう無宇よ」
「左様でございますね」
「そろそろあの者にもご退場願わねばならないからな」
陳須無は笑った。
向戌は最後に秦に行き、秦も同意しました。
晋・楚・斉・秦がそれそれの支配下にある小国に伝え、諸侯が宋で会見することになった。
五月、最初に趙武が宋に入り、その次に鄭の良霄が宋に入った。
六月、宋は趙武をもてなした。叔向が宴の介(補佐)になり、司馬が折俎(宴席の料理の一種。犠牲を切って俎に置いたもの)を準備した。
その後、魯の叔孫豹、斉の慶封と陳須無、衛の石悪が到着。晋の荀盈が趙武に続いて宋に入った。
続いて邾の悼公が到着し、楚の公子・黒肱(子晳)が令尹・子木より先に入って晋と和平の内容を交渉を始めた。
楚の子木は晋を警戒し、陳にいたため、向戌が陳に入って子木と和平の内容を交渉した。
その間に滕の成公が到着した。
子木は向戌に対して晋に従う国と楚に従う国が両大国を朝見することを希望した。今後は晋に服従している国も楚に朝見し、楚に服従している国も晋に朝見することを義務付けるという意味である。
向戌が趙武に楚の意志を伝えた。しかし趙武は斉と秦の存在を考慮してこう言った。
「晋、楚、斉、秦は同等の国である。晋が斉(晋と同盟している)を指揮できないように、楚も秦(楚と同盟している)を指揮できない。楚君が秦君を我が国に使わすことができるのであれば、我が君も斉に対して楚に入朝するように要求しよう」
向戌が趙武の言葉を子木に伝えると彼は馹(駅車)を送って楚都の康王に伝える。康王は、
「斉と秦をはずし、他の国(中小国)には双方(楚と晋)を朝見させるようにしよう」
と伝えた。
七月、向戌が陳から戻るとその夜、晋代表の趙武と楚代表の公子・黒肱が盟書の言を統一するために打ち合わせを行った。
子木がやっと陳から宋に入り、陳の孔奐(または「孔瑗」)、蔡の公孫帰生および曹、許の大夫も到着した。
各国は兵を率いているものの、営塁を築かず、竹や木の柵だけで境界を作るだけであった。晋は北に、楚は南に駐留する。
晋の大夫・伯夙(一説では荀盈を指すと言われている)が趙武に言った。
「楚の雰囲気がよくございません。難があるのではないでしょうか」
楚がこの機に乗じて、自分たちを襲撃するつもりではないかということである。
趙武は言った。
「我々が左に転回しながら宋の城門に入れば、楚はどうすることもできないだろう」
これは車右を活かすために左回りに動くということである。
その後、宋の西門の外で盟が結ばれることになった。
楚人は服の下に甲を着ていた。
大宰・伯州犁が子木に言った。
「諸侯の軍を集めながら不信を行うのは、相応しくはありません。諸侯は楚に信があることを望み、服従しているからです。もし我々が不信であれば、諸侯が服従する理由を棄てることになりましょう」
伯州犁は甲を脱ぐように主張したが、子木は同意しなかった。
「晋と楚が信を失って久しい。我々に利がある事をやるだけのこと。志を得ることができるのであれば、信など必要ない」
伯州犁は退出して言った。
「令尹は三年も経たずに死ぬだろう。志を満足することだけを求め、信を棄てようとしている。それでは志を達成できると思っているのか。志によって言は発せられるものであり(志は意志、思想の意味で、考えが生まれてから言葉になる)、言は信を生む(言論が生まれれば、それに合う行動が必要になる。それが信ということ)、信は志を立てる(信によって意志が達成できる)。三者(志・言・信)が互いに関連することで、事業を定めることができるのだ。信を失えば、三に達することができない(三年生きることはできない)」
一方、趙武は楚が甲を着ていることを恐れ、叔向に相談した。叔向は恐れることもなく。
「何を恐れるというのですか。匹夫でも不信を行うことは許されず、不信を行えば、終わりを善くすることができないもの。諸侯の卿を集めながら不信であれば、勝利するはずはございません。言を守ることができない者は、人に難を与えることもできません。心配する必要はなく、信を口実にして人を招きながら、不信によって人を利用しようとしようとも、賛同する者はいません。どうして我々を害することができるでしょう。また、我々は宋によって楚の害から守られております(同盟国の宋で会盟が行われている)。もし楚が兵を用いれば、晋の士卒は命を棄てて戦い、宋も我々と共に死力を尽くすでしょう。たとえ楚に我々の倍の士卒がいたとしても心配はいりません。しかしそこまで悪いことは起きないでしょう。弭兵を目的に諸侯を集めておきながら、兵を用いて我々を害すような真似をすれば、我々の利が多くなるでしょう。憂いることはございません」
魯の季孫宿が使者を送り、襄公の命として会に参加した叔孫豹にこう伝えた。
「魯を邾や滕と同等の国とみなせ」
暫くして、斉が邾を属国とし、宋が滕を属国にすることを要求した。邾と滕は他国の属国になったため、会盟に参加しなくなった。
叔孫豹は、
「邾と滕は他国の属国になった。我が国は列国(独立した諸侯の国)である。なぜ彼等と同等とみなされる必要があるというのか。宋や衛こそが我々と同等な国である」
と言うと、襄公の命を無視して会に参加し、盟を結んだ。
属国は主人の国だけに貢物を献上すればいいが、独立した諸侯は、晋と楚の和平後、両国に入朝して貢物を献上しなければならない。それを避けるために襄公や季孫宿は魯を邾や滕と同等にするように命じたのである。しかし叔孫豹には理解されなかった。
盟を結ぶ段階に入ると晋と楚が歃血(犠牲の血を啜り、血を口の横に塗る儀式)の順位を争った。
晋側は、
「晋は元々諸侯の盟主である。今まで晋より先に行った者はいない」
楚側は、
「あなた方は、晋と楚は同格だと認めているにも関わらず、もし晋が常に先に行うというのであれば、楚が弱いことになるではないか。それに、晋と楚が諸侯の主を交代した盟から久しく経った(紀元前589年。楚が蜀に諸侯を集めて会盟を行い楚が盟主になって既に四十年以上経っているため、今回は楚が晋より先に儀式を行うべきだ、という意味)。なぜ晋だけが先に行うというのか」
これでは埒が明かないと判断した叔向は趙武に進言した。
「諸侯は晋の徳に帰しております。会盟の主に帰しているのではありません。あなたは徳に務めるべきであり、先を争ってはなりません。そもそも諸侯の盟において、小国が必ずやらなければならないことがあるものです楚に先に儀式をさせて、晋の小国(儀式を手伝う者)とみなせばよろしいではありませんか」
諸侯が歃血を行う際、小国の大夫が犠牲の耳を切る等の手伝いをした。そのため楚をそのように扱えば良いと言ったのである。
会盟には晋の趙武、魯の叔孫豹、楚の屈建、蔡の公孫帰生、衛の石悪、陳の孔奐、鄭の良霄および許人、曹人が参加し、楚が先に歃血を行った。
その後、宋の平公が晋と楚の大夫を招いて宴を開いた。趙武が客(主賓)になる。
子木が趙武に質問したが、趙武は答えることができず、側に従っている叔向に回答させた。
叔向が質問すると、今度は子木が答えられなかった。
平公と諸侯の大夫が蒙門(東北門)の外で盟を結んだ。
子木が趙武に問うた。
「士会の徳とはどのようなものであったのでしょうか?」
「彼は善く家を治めながら、国に対して隠し事はなく、士氏の祝史(祭祀・祈祷を行う官)も鬼神に対して信を表し、愧辞(やましい言葉)はございませんでした」
子木が帰国してから康王にこのことを話すと、康王はこう言った。
「高尚なことである。神と人を喜ばせることができるのであれば、五君(文公・襄公・霊公・成公・景公)を補佐して盟主にすることができたのも当然である」
子木は頷きながら、
「晋は伯(覇者)に相応しい国と言えます。晋では叔向がその卿(趙武)を補佐しておりますが、楚には彼に匹敵する者がおりません。晋と争うべきではありません」
その後、晋の荀盈が楚に改めて入って盟を結んだ。




