衛の子鮮
斉の景公が慶封を魯に送って聘問した。
その車が美しかったため、魯の仲孫速が叔孫豹に囁いた。
「慶封の車はとても美しいものだ」
叔孫豹は吐き捨てるように、
「『車服等の装飾と人がつりあわない者は、悪い終わりを迎えることになる』という。車が美しいことは役に立たない」
叔孫豹が慶封を食事に招いたものの、慶封は不敬であった。
叔孫豹は嫌な顔をしながら『相鼠(詩経・鄘風)』を賦したが、慶封はその意味を理解できなかった。
『相鼠』には、「人でありながら儀がなければ、死ぬしかないだろう」、「人でありながら恥を知らないにも関わらず、死なずに何を待っているのか」、「人でありながら無礼であるのであれば、速やかに死ぬべきだ」といった句がある。
この時代の貴族は詩に乗せて、自分の意志を伝えるという一見、美しい部分があるものの、その内容は以外にもドロドロしている。
それにしても大胆にもこのような内容を言う叔孫豹も大胆というか。性格が悪いというか。この人は時代を代表する名臣と言うべき人であるものの、その性格や口調は褒められたものではない。
この頃、衛では、甯喜に権力を集中しており、衛の献公はそのことに対して不満を抱くようになっていた。
そこで大夫・公孫免餘が甯喜誅殺を進言するようになった。しかし献公はこう言った。
「甯子がいなければここにいることはできなかったのだ。また、彼とは約束がある(献公が復位することができれば、政治は甯氏が行うと約束)。事が成功するかどうかは分からず、悪名を残すことになる。止めておこう」
彼は自分の帰国を助けた人物である。表立って、彼と対立することは世間体的にも良くはない。
公孫免餘は、
「私が彼を殺します。主公は知らなかったことにすればよろしい」
公孫免餘は公孫無地、公孫臣と相談し、二人に甯氏を攻撃させた。しかし失敗して二人とも殺されてしまった。
献公が言った。
「臣(公孫臣)に罪はない。父子とも余のために死んでしまった」
公孫臣の父は献公が出奔した際、孫氏に殺されたようである。
夏、公孫免餘は諦めずに再び甯氏を攻撃し、甯喜と右宰穀を殺した。死体が朝廷に晒された。
その頃、石悪は宋で行われる会盟に参加するように命じられたばかりであったが、異変を知ると石悪は出発する前に朝廷に行き、甯喜の死体に服を着せ、太股の上に寝かせて号哭した。
その後、大斂(死体を棺に入れること。または埋葬すること)してから亡命しようと思ったものの、禍を恐れてあきらめ、
「君命を受けた」
と言って会盟に向かった。
子鮮も変事を知ってこう言った。
「国君を駆逐した者(孫林父)は逃亡し、国君を国に入れた者(甯喜)は死んでしまった。賞罰に基準がないのに、悪を防ぎ、善を勧めることができるだろうか。国君が信を失い、国には正常な刑が存在していない。難しいことである。しかも、甯喜に指示を出したのは私自身だ」
子鮮は晋に出奔した。
献公は止めようとしましたが、子鮮は国を出てしまった。黄河を渡ろうとした時も、献公の使者が呼び戻しに来たが、子鮮は使者を留め、黄河に誓って去った。
子鮮は木門(晋地)に住んだ。
彼は衛に向かって坐ることなく、妻と誓って衛の地を踏むことなく、衛の食物を採ることなく、死ぬまで衛について話すこともなかったと言われている。
晋の木門大夫が子鮮に仕官を勧めたが、子鮮は拒否した。
「仕官しても事を廃せば、罪になる」
晋に仕えようとも、自分の職責を全うすることなく、功績を挙げようとしなければ罪になることになる。それであれば、晋に仕えない方が良く。
「従えば、出奔した理由を明らかにすることになる」
もし、晋に仕えて功績を挙げるようなことがあれば、賢臣を出奔させた衛君の罪が天下に示されることになる。
「私は誰にも自分の境遇を明らかにすることができない。そのため私が人の朝(晋の朝廷)に立つことはできません」
子鮮は官に就くことなく、暫くして死んだ。
献公は子鮮のために税服(喪服)を着たまま、最後の年を迎えたという。
献公は公孫免餘に六十の城邑を与えようとしたが、公孫免餘は辞退した。
「卿だけが百邑を持つことができるものです。私は既に六十の邑を有しており、下の者が上の禄を持つようになれば、乱を招くことになります。私は命に従うことができません。そもそも、甯子は邑が多いため殺されたのです。私は死が速く訪れることを恐れます」
しかし献公が頑なに与えようとしたため、公孫免餘は半数を受け入れた。
献公は公孫免餘を少師に任命し、更に卿にしようとしたが、公孫免餘は、
「大叔儀は二心を抱かず、大事を助けることができます。主公は彼を任命するべきです」
大叔儀が卿になった。
衛の乱の前後に起きた事を話す。
魯の郈成子が晋に聘問に行った途中で衛を通った際、右宰穀臣が郈成子を留めて宴を開いた。
楽器が並べられ音楽が奏でられたが、曲には楽しさがなく、酒に酔った頃になると右宰穀臣が郈成子に玉璧を贈った。
晋から帰る時、郈成子は右宰穀臣を訪ねることがなかった。そのため僕(御者)が疑問に思い聞いた。
「晋に行く際は、右宰穀臣はあなた様をもてなされ、楽しそうでした。帰りに寄らないのはなぜでしょうか?」
郈成子はこう答えた。
「彼が私をここに留めてもてなしたのは、私と楽しみを共にしたかったからだ。しかし音楽には楽しさがなかった。これは私に憂いを伝えたかったためだ。酒がまわった時、私に璧を贈ったのは、私に後の事を頼みたかったからだろう。恐らく衛で乱が起きることになる。だから寄らないのだ」
郈成子が衛を離れて三十里まで進むと甯喜の難によって右宰穀臣が死んだと知った。彼は車を還して衛に入り、三回哀哭して帰国した。
その後、郈成子は人を送って太宰穀臣の妻子を魯に招き、自分の屋敷と俸禄を分けて生活させた。
太宰穀臣(右宰穀臣)の子が成長すると、郈成子は玉璧を返したという。




