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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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楚の子木

 楚の卿・屈到(くつとう)子木(しぼく)の父)は芰(菱。植物の名)が好物であった。病に倒れて死が近づくと、宗老(家臣)に言った。


「私の祭祀では芰を使え」


 宗老は流石にぎょっとしたものの、頷いた。


 屈到が死んで祥(葬祭)が行われると、宗老が芰を供えようとした。しかし屈建(くつけん)(子木)がそれを持ち去るように命じる。


 宗老が言った。


「旦那様の遺言でございます」


 屈建は首を振り、


「父は国政を奉じ、その法刑は民心に留められ、王府にも保管されている。上は先王と較べることができ、下は後世を訓導することができる人物であったため、たとえ今後、国でその栄誉を称えられなくなっても、諸侯が忘れることはない。祭典(祭祀の規則)にはこうあります『国君は牛、大夫が羊、士は豚犬、庶人は魚炙(炙った魚)を供える。籩豆(礼器)や脯醢(干肉・肉醤)は国君から庶民に至るまで使うことができる。珍味を供えず、種類を多くしてはならない』父が私欲によって国のきまりを犯すことは許されません」


 芰は供えられなかった。


 許の霊公(れいこう)が楚に入り、鄭討伐を請うた。鄭と許は長い間敵対している。


 霊公は、


「楚軍が出兵なさならいのであれば、私は帰らない」


 と言い居座った。楚の康王(こうおう)は受け入れたかったが、子木が許可を出さない。そのため鄭討伐は見送られたのだが……


 八月、子木にとって困ったことになった霊公が楚で死んだのである。


 これに康王はやる気を出して、


「鄭を討伐しなければ諸侯を得ることはできない」


 と言い出した。


「鄭を攻めれば、晋を刺激する可能性があります」


 子木としては許すわけにはいかなかったが、


「許君のためである」


 許君は死をもって、望んだことを叶えるためと言われては許すしかなかった。


 十月、康王は鄭を攻撃した。これに蔡の景公(けいこう)、陳の哀公(あいこうも無理やり参加させられている。


 鄭は楚軍に対抗しようとしたが、子産(しさん)が反対した。


「晋と楚は和平しようとしております。それにも関わらず、諸侯が和そうとしているのに、楚王は唐突で意味のない出兵をしております。彼等を満足させて帰らせたほうが、講和もしやすくなるでしょう。小人の性とは、隙を見つければ勇を奮わせ、禍乱の中で貪欲になり、自分の本性を満足させて虚名を求めるもの。これは国家の利になりせん。従うべきではございません」


 許君のためと楚王は主張しているが、結局は自分の欲望のために出兵しているに過ぎない。この行動には何の戦略的意味も何もないのである。


 このような相手に無駄に戦をする必要はないだろう。


 子展(してん)は納得して楚に抵抗しなかった。


 十二月、楚軍が南里に入って城を破壊した。楽氏(洧水の渡し場)を渡って師之梁(鄭の城門)を攻撃する。鄭は城門を閉じたが、楚軍は逃げ遅れた鄭人九人を捕虜にした。


 楚軍は南氾で汝水を渡って帰国した。その後、楚は霊公を埋葬した。


 許では霊公の子・(ばい)が即位した。これを悼公(とうこう)という。










 衛が衛姫(えいき)を晋に嫁がせた。晋の平公(へいこう)には姫姓の妾が四人おり、衛姫はそのうちの一人である。


 平公は衛の献公(けんこう)を釈放した。六月に捕えられた甯喜(ねいき)北宮遺(ほくきゅうい)も一緒に帰された。


 君子(知識人)は姫妾を得てから献公を釈放した平公の判断を失政として謗った。


 晋の韓起かんきが周王室を聘問した。


 周の霊王(れいおう)が使者を送って聘問の理由を聞くと、韓起はこう答えた。


「晋の士(諸侯の大夫は周王の士になる)・起は時事(四季の貢物)を宰旅(冢宰の士)に奉じに参りました。それ以外の理由はございません」


 これを聞いた霊王は、


「韓氏は晋で隆盛するだろう。その言は旧(古の礼)を失っていないからだ」


  と称えた。


 斉が郟(洛邑・王城)に築城した年(二年前)の夏、斉の烏餘(うじょ)(烏が氏。餘が名)が廩丘(元は衛の地。斉が奪って烏餘に与えた)を挙げて晋に亡命し、衛の羊角を攻めて奪った。


 更に魯の高魚にも攻撃を仕掛け、ちょうど大雨が降ったため、竇(城内の水を出す孔)が開かれた。烏餘の兵はそれを利用して侵入し、城内の武庫を占拠して兵を武装させ、城壁に登って高魚も占領してしまった。


 その後、宋の邑も奪った。


 当時、晋の士匄しかいが死んだばかりだったため、盟主がいない諸侯はこの暴れまわる烏餘を討伐できないでいた。


 この年、趙武ちょうぶが晋の政事を行うことになっていた。趙武が平公に言った。


「晋が盟主であるのに、諸侯が互いに侵犯しております。討伐して奪った地を返させるべきです。烏餘の邑は本来、討伐を受けるべきですが、我が国はそれを自国の利としております(烏餘の亡命を受け入れている)。これでは盟主になる資格はございません。奪った地を返すべきです」


 平公は納得し、誰を派遣するべきか問うた。


 趙武は、


胥梁帯(しょりょうたい)胥甲父(しょこうほ)の孫。胥午(しょご)の子)は軍を用いなくとも任務を完遂できましょう」


 平公は胥梁帯を派遣した。


 紀元前546年


 春、胥梁帯が烏餘によって城邑を失った諸侯(斉・魯・宋。前年参照)に車徒(車兵と歩兵)を用意させた。秘密裏に反撃の準備が進め、胥梁帯は烏餘の元に出向き、車徒を率いて封地を受け取りに来させた。


 烏餘は何の疑いも無く、自分の衆を率いて出発する。


 烏餘が到着すると、胥梁帯は諸侯に命じて烏餘に城邑を譲るふりをさせ、油断した烏餘を捕えた。その衆も全て捕虜になり、烏餘が侵略した邑は全て諸侯に返され、諸侯が改めて晋に帰心した。


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