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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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楚材晋用

 楚の伍参ごさんと蔡の太師・子朝しちょう(公子・ちょう。蔡の文公ぶんこうの子、景公(けいこう)の弟)は友人関係にあり、伍参の子・伍挙(ごきょ)と子朝の子・声子(せいし)公孫帰生(こうそんきせい))も交流があった。


 伍挙は楚の王子・牟(申公)の娘を娶っていたが、王子・牟は罪を侵して逃走してしまった。楚人が、


「伍挙が申公の逃走を助けた」


 と訴えたため、伍挙も鄭に奔り、やがて晋に移ろうとした。


 その頃、声子が晋に向かっており、鄭の郊外で伍挙に会った。


 二人は草で席を作り、野外で食事をする。伍挙は楚に帰りたいと話すと、声子は言った。


「行きなさい。私があなたを帰らせてみせよう」


 この頃、調子に乗っている宋の向戌(しょうじゅつ)は晋と楚の関係を調停してみせようと働きかけていた。


 声子は講和の準備のために晋を訪れ、楚に行った。


 楚の令尹・子木(しぼく)が声子に晋の状況を問い、こう聞いた。


「晋の大夫と楚の大夫ではどちらが優れているのか?」


 声子は答えた。


「晋の卿は楚に及んでおりませんが(楚の卿・子木は晋の卿・趙武よりも優れているという意味。煽てている部分はある)、晋の大夫は皆、賢明で、卿に相当する材ばかりです。杞梓や皮革は楚で生産してから晋に送られておりますが、これと同じように、楚に人材がいても、実際は晋で用いられております」


 この彼の言葉から楚材晋用という言葉が生まれた。


 子木(しぼく)は聞いた。


「晋は族姻(同宗・親戚)を用いないのか?」


 楚は基本的に王族で政治運営が行われている。


「用いておりますが、しかしながら楚の材が多いのは確かです。国をうまく治める者は、賞が度を越えることはなく、刑が妄りに行われることもないものです。賞が度を超えれば、淫人(悪人)に賞が与えられることを恐れなければなりません。刑が妄りに行われたら善人に刑が与えられることを恐れなければなりません。もし不幸にも賞や刑が度を越えてしまうようであるのであれば、刑が妄りに行われるよりも、賞が過度に与えられたほうがましというもの。過度な刑によって善人を損なうくらいならば、過度な賞によって淫人を利する方がましです。善人がいなくなれば、国も害を受けることになるからです。『詩(大雅・瞻卬)』にはこうあります。『人材がいなくなれば、国が衰弱するものだ』これは善人がいなくなるからです。だから『夏書(尚書・大禹謨)』には『無罪の者を殺すくらいならば、罪人に対する刑を失った方が良いだろう』とあるのです。善人を失うことを恐れるためです。また、『商頌(詩経・商頌・殷武)』はこう言っています『度を越さず濫用もせず、怠けることもない。下国に命を発し、大いに福を作らん』これは湯王(とうおう)が天福を得た理由でございます。古の民を治める者は、賞を楽しみ刑を恐れ、民を慈しんで厭うことなく、賞は春夏に行い、刑は秋冬に行ってきたものです。統治者が賞を行う際には、自分の膳(食事)を増やし、余った分を下の者に与えました。ここから賞を楽しんでいたことがわかります。刑を行う時には、自分の食事を減らし、音楽も退けました。ここから刑を恐れていたことがわかります。彼等は朝早く起き、夜遅く寝て、一日中政事に臨んだものです。ここから民を慈しんでいたことがわかります。この三者は礼の大節と言えます。礼があれば失敗することはございません」


 聖王が行ってきた賞罰はしっかりと考えられて行われてきたものである。


「今の楚は淫刑(妄りに行う刑罰)が多く、大夫が四方に逃走し、別国の主に仕えて楚を害しております。この状況は既に救いようがないと思いませんか。これこそが刑罰を濫用してはいけない理由でございます。子儀の乱(紀元前613年)では析公(きこう)が晋に奔り、晋人は彼を戎車(晋公の車)の後ろに置いて謀主(策謀を練る者)にされました。繞角の役(紀元前585年)で晋が退却しようとした時、析公はこう言いました『楚軍は軽窕(陣が薄い)であるため、容易に動揺させることができます。戦鼓の音を一斉に響かせて夜の間に進軍すれば、楚軍は必ず遁走するでしょう』と、晋人がこれに従ったため、楚軍は夜間に壊滅したのです。そこで晋は蔡を侵し、沈を襲い、その君を捕えることができました(紀元前583年)。また、桑隧では申と息の軍を破り、申麗(しんり)を捕えて還っております。だから鄭は南面(楚に仕えること)しなくなったのです。楚が華夏を失ったのは析公が原因でございます」


 それが、最初の楚材晋用の例である。


「次に雍子(ようし)の父兄が雍子を讒言し、国君と大夫も助けなかったため、雍子は晋に奔りました。そこで晋人は鄐の地を彼に与えて謀主にしました。彭城の役(紀元前573年)の際、晋と楚は靡角の谷で遭遇しました。晋は撤退しようとしたものの、雍子が軍中に命じました。『老幼(老人・未成年者)、孤疾(孤児・病人)は帰れ。兄弟二人そろい、従軍している場合は一人が帰れ。精鋭を選び、車馬を検査し、馬に餌を食べさせ、兵も食事をとり、陣を構えて帳を焼け。明日、決戦する』こうして帰るべき者は全て帰り、わざと楚囚(楚の捕虜)も逃がしました(晋が決戦の準備をしていることを知らせるためである)。その結果、楚軍は夜の間に壊滅し、晋は彭城を降して宋に返し、魚石(ぎょせき)を連れて帰りましたのです(紀元前572年)。楚が東夷を失い、子辛(ししん)が死んだのは雍子が原因です」


 実際に子辛が死んだのは、紀元前568年のことで楚で殺されている。


子反(しはん)子霊(しれい)巫臣(ふしん))が夏姫(かき)を争った際(紀元前589年)、子霊は婚姻を阻止されて晋に奔りました。そこで晋人は子霊に邢の地を与え、謀主に致しました。その結果、子霊は北狄を防ぎ、呉と晋を通じさせ、呉を楚から背かせ、乗車、射御(射術と御術)、駆侵(兵車の戦い)をもたらし、その子・狐庸(こよう)を呉の行人にしました。その後、呉は巣を侵し、駕を取り、棘を占領し、州来にまで入りました。楚は呉のために奔命し、今の患憂となったのです。これは子霊が原因でございます」


 呉という脅威を生み出したのは、結局は楚がもたらしたのである。


「若敖の乱(紀元前605年)で伯賁(はくふん)の子・賁皇(ふんこう)が晋に奔りました。そこで晋人は苗の地を与え、謀主とされました。鄢陵の役(紀元前575年)では、朝から楚が晋軍を圧して陣を構えたため、晋は撤退しようとしました。しかし苗賁皇が『楚軍の精鋭は中軍の王族だけでございます。井戸を埋め、竃を平らにして陣を敷き、欒氏(欒書(らんしょ))と范氏(士燮(ししょう))が敵を誘い出せば、中行氏(荀偃(じゅんえん))と二郤(郤綺(げきき)郤至(げきし))が必ず二穆(子重(しちょう)と子辛。二人とも楚の穆王(ぼくおう)の子孫)を破ります。その時、四軍を集結し、楚の王族を撃てば、必ずや大勝できましょう』と言い、晋人はそれに従いました。その結果、楚軍は大敗し、王は負傷し、士気が落ちて子反が死んだのです。そして、鄭が背き、呉が興隆し、楚が諸侯を失ったのは、苗賁皇が原因です」


 子木は頷きながら、


「全てその通りだ」


 と認めた。


 結構、声子の言葉は疑惑の部分もあるものの、楚の人材が晋に流れているのは、事実である。


 声子は更に続ける。


「ところが今、これらよりも更に重要な者がおります。伍挙は申公・子牟の娘を娶ったものの、子牟が罪を得て亡命した時、国君と大夫は伍挙に『汝が逃がした』と申されました。そのため彼は恐れて鄭に奔りました。彼は南を眺めて『赦されて帰国できるかもしれない』と申しておりますが、楚は彼を赦そうとしておりません。もし今、彼は晋に行きますれば。晋人は彼に県を与えて叔向しゅくきょうと同列に置こうとしています。彼が楚を害するようになったら、楚の禍患となりましょう」


 子木は恐れて康王に報告した。康王は伍挙の禄爵を増して呼び戻すことにした。声子は椒鳴(しょうめい)(伍挙の子)を派遣して伍挙を招いた。


 見事に友を救って見せたものである。





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