諸樊
十月、子展が鄭の簡公の相(補佐)となり、晋に入朝した。陳の戦利品を受け入れたことを拝謝するためである。
その後、鄭の子西(公孫夏)が再び陳を攻撃し、陳は鄭と講和した。
楚の蔿掩(薳奄。薳子馮の子)が司馬になった。令尹・子木は蔿掩に賦税を管理させ、甲兵(兵器)の検査を命じた。
蔿掩は土(土地)・田(農地)の状況を詳細に記録し、山林の材を量り、藪沢の産物を集めさせ、地形の高低を調べ、淳鹵(塩分が多くて植物の成長に向かない場所のこと)に標識を立て、湿地の面積を計算した。
塩分や水分が多くて農作物が育ちにくい地域は税が軽くなるということがあった。
堤防を作って水を溜め、灌漑を行い、堤防に挟まれた狭い耕地を区画を行い、水草が多い湿地では放牧を行わせ、肥沃な土地では井田制を施行した。
楚では当時まだ井田制を行っていたのである。
収穫数を量って賦税を整理し、民から車馬の税を取り、車兵(戦車が使う武器)と徒兵(歩兵が使う武器)や甲楯を納めさせた。
全て完成すると、蔿掩は子木に報告した。
十二月、呉王・諸樊が楚を攻撃した。舟師の役(前年)の報復である。
呉軍は巣の城門を攻撃した。
巣牛臣が言った。
「呉王(当時、既に王を公言していた)は勇敢であるものの、軽率です。そのため城門を開けば、自ら門に進むことでしょう。私がそれを射て倒します。呉君が死ねば、国境が少しは安らかになります」
楚の諸将はこれに従った。
諸樊が城門に入ると、巣牛臣は短牆(城壁の低くなった場所)に隠れて矢を射た。諸樊は矢が中り、倒れ込んだのを部下たちは抱き抱え、戦場から逃れた。
もはや諸樊の傷は深く助からないものであった。
「私の後は弟の餘祭に譲れ、季札に至るようにするのだ」
(本当であれば、これは今後に余計な混乱をもたらすことになるだろう)
諸樊は自分の死がこんなに早いとは思っていなかった。
(国君を演じきる前に死ぬとは……天よ。それほど季札に王位を与えたいのか……)
そうだとすれば、この後、弟が継げば、弟も死に、その次もと続き、やがて季札に王位が移るようになることになる。
天だけではない国民も亡き父も盲目的に季札を国君に即位させたいと願っている。
(この呉という辺境の国にとって、季札は太陽だ。その太陽の輝きから呉は逃れることができない)
季札というのは、呉にとって一種の神であり、信仰なのだ。
(呉はその偽りの信仰に成り立っている)
何かをこの国の象徴にしなければ、呉は崩れていく。それほどこの国は脆い国なのだ。わかりやすく言えば、呉は中原へのコンプレックスがある。
(それへの誤魔化しが、父の頃の太伯と虞仲の伝説であり、今は季札への信仰である)
その信仰故に逆に季札は王位に継げなくなった。
(それを季札もわかっている)
最初、季札が父が国君の座に即位させようとした時、断ったことは、呉にとっては誇りになった。中原の賢人と讃えられた人物のような人がこの呉にもいるという誇りである。
誇りは人々の熱となり、信仰となった。
(もし、季札が即位すれば、それらは消えるだろう)
呉という国は感情の人が多い。すっと感情が冷めていくのだ。
(そういう国を変えなければ、ならなかった。季札を開放してやりたかった)
その手段が楚への勝利であった。南方において最強の国である楚への勝利は季札への信仰をも勝ることができるはずだった。
その前に自分が死んでしまう。それが悔しかった。
諸樊は死んだ。
彼の遺言に従って餘祭が即位した。彼が先ず、行ったことは季札を延陵の地に封じることであった。
「兄上の御意志にしっかりと報いましょう」
季札はそこで善政を行うようになり、やがて延陵の季子と号した。
楚の康王が舒鳩を滅ぼした功績を称えて子木を賞した。しかし子木は、
「先大夫・蔿子(薳子馮)の功でございます」
と言って辞退した。前年、舒鳩を攻撃しようとした康王を薳子馮がとどめて離反を待ったためである。
康王は賞賜を蔿掩に与えた。
晋の程鄭が死んだ。
それを聞いた鄭の子産は初めて然明の聡明を知った。
早速彼に会いにいくと政治について問うた。然明はこう答えた。
「民を子のように慈しみることです。また、不仁の者を見つければ誅殺し、その様子は鷹鸇が鳥雀を駆逐するようでなければなりません」
彼の言葉に喜んだ子産は子太叔に言った。
「以前、私は彼の外貌のみ注視していたが、今、その心を見ることができた」
子太叔が政治に関して子産に問うと、子産はこう言った。
「政事とは農功(農業)と同じである。日夜それを想わなければならない。その始まりを想い、またその終わり(結果)を想い、朝から夜まで考えたことを行う。行動は思考したことを越えないものであり、熟考したことだけを行い、妄りに行動してはいけない。それは農地に畦があるようなものだ。そうすれば過失を少なくすることができるだろう」
己の身をわきまえた態度で政治には望め、ということである。これはどうにも政治の秘訣というよりは、子太叔への戒めに近い。
衛の献公は夷儀に移った後、使者を送って甯喜に帰国の相談をした。甯喜は献公の帰国に同意する。
太叔儀がそれを知り、嘆息し言った。
「『詩(邶風・谷風と小雅・小弁)』には『私の身も容認されていないいないにも関わらず、後世のことを考える余裕などない』とある。甯喜は後世のことを考えていないと言っていいだろう。それでいいはずがない。君子の行いとは、その終わり(結果)を想い、次を考えてから行動するものだからだ。『書(恐らく佚書のことと思われるが、但し、似たような文は『逸周書・常訓篇』等に見られる)』にはこうある『始めに慎重になり、終わりを重視すれば、困窮せず』また、『詩(大雅・烝民)』は『朝も晩も怠らず、一人に仕えん』と言っている。甯喜の国君に対する態度は弈棋(将棋の駒)にも及ばない。禍から逃れられることはないだろう。弈者(将棋を打つ人)は棋(駒)が指す場所を定めることができなければ、相手に勝てないものだ。国君を定めることができないのは、なおさら危険だ。九世の卿族(甯氏は衛の武公から出て九世)も、一挙にして滅びるとは、哀しいことである」
甯喜は未来に対して、背を向けて物事を決めている。国を動かす者としては致命的であった。




