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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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不屈

最近、章題と話の内容があっていないなあと感じることが多いので、今、章題を変えようかなと考え中。

 崔杼さいちょの家の前に晏嬰あんえいは立っていた。


 晏父戎あんほじゅうが晏嬰に聞いた。


「坊ちゃん。国君を追って死ぬつもりですか?」


「私の死(命)は、我が君一人だけのためにあるのではございません」


「それならば、去るつもりですか?」


 遠まわしに国から離れるのもどうかという意味もある。


「私に罪があるというのでしょうか。私が亡命しなければ、ならない理由とはなんでしょう」


「それでは帰りますか?」


 晏嬰は門を見据えながら言った。


「国君が死んだにも関わらず、どこに帰るというのか。民の君となる者は、民を虐げてはならず、社稷を主持しなければならないものです。国君の臣となる者は、俸禄のためではなく、社稷を守らなければならないもの。故に国君が社稷のために死ねば、臣下も共に死に、国君が社稷のために亡命すれば、臣下も共に亡命する。逆にもしも国君が自分のために死んだり亡命したのであれば、国君の私暱(寵臣)でなければ、敢えてその責任を負う者はいない。そもそも、国君は人(崔杼)によって立てられ、その人に弑されたのだ。私が死んだり亡命する必要はないではないか。しかしこのまま帰ることもできない」


 そう言うと、歩きだしたので、晏父戎はその後を追う。


 晏嬰は門を開き、屋敷に入ると荘公の死体を見つけ、近寄ると膝の上に置いて号哭し、立ち上がってから三踊して去った。


 崔杼の部下が、


「晏子を殺すべきです」


 と進言したが崔杼は、


「彼は民の望(人望)を得ている。生きて帰らせれば民を得ることができる」


 と言って自由にさせた。


「殺しませんでしたなあ」


 晏父戎は晏嬰を車に乗せ、屋敷に戻ろうとしている中、言った。


「そうですね」


「次は権力の基盤を固めようとするでしょうか」


「そうでしょう」


「坊ちゃん。多少の妥協も必要だと思いますよ」


 これから崔杼は自分の権力を確固としたものにするために、粛清を始めるはずである。それに巻き込まれないようにするべきであろう。


「妥協ですか……私は社稷のために生きるだけです」


 そんな晏嬰に晏父戎は嘆息した。


 崔杼は荘公を殺した後、鬷蔑そうべつを平陰で殺した。荘公の母を鬷声姫そうせいきというので、鬷蔑は荘公と親しかったのである。


 また、平陰は斉都・臨淄附近の険邑で、鬷蔑が守っていた。そのため崔杼が鬷蔑を殺したのは、荘公の党が険要の地を擁すことを恐れたためである。


 盧蒲癸ろほきは晋に、王何おうかは莒に奔った。二人とも荘公の党である。


 叔孫僑如しゅくそんきょうじょが斉にいた頃、叔孫還しゅくそんかん(斉の公子)が僑如の娘を斉の霊公れいこうに娶らせた。娘は寵愛されて杵臼を産んだ。


 崔杼はその杵臼に目を付け、彼を擁立した。これを斉の景公けいこうという。崔杼は自ら相(右相)となり、慶封けいほうが左相になった。


 次に崔杼は大宮(太公廟)に士大夫を集めて、自分たちに逆らわないことを盟で結ばせた。


 士大夫は剣をはずして集められ、崔杼への協力を誓う言葉を躊躇したり、盟を結ぶ時に使う犠牲の血に指をつけない者は次々に殺され、その数は十人にのぼった。


 そのため皆、恐れ盟を結んでいく中、晏嬰に順番が来た。


(坊ちゃん。頼みますよ)


 晏父戎は天に祈る気持ちで、眺める。


 晏嬰は犠牲の血が入った杯を持ち、天を仰ぎ、嘆息して言った。


「嬰は……君に忠であり、社稷に尽くす者だけに従わん」


 そのまま、犠牲の血を圧倒言う間に飲んでしまった。


 集まった者達は皆、驚き、晏嬰を見た。


 崔杼が晏嬰に言った。


「あなたが私に協力するのであれば、私は国を分けてあなたに与えようではないか。あなたが私に協力しないのであれば、私はあなたを殺すしかない。直兵(矛のような真っ直ぐな武器)があなたを突き、曲兵(戟等の刃が曲がった武器)があなたの首にかけられることになるだろう」


「利で誘い、主君に背かせようとする者は非仁、武器で脅し、志(心)を失わせようとする者は非勇である。『詩(大雅・旱麓)』にはこうある。『親しみやすき、君子は、福を求めて道をはずさないものだ』。私も道をはずすことはできない。直兵や曲兵に脅かされようとも」


 崔杼はこの毅然とした態度で答えた晏嬰を直視する中、晏嬰も一切、目を背けず見返した。


 少しして、崔杼はこれを許した。


 晏嬰は小走りで門を出て車に乗った。小走りは身分が高い人の前で行う礼である。


 僕人(御者)が急いで出発しようとして、上手く手綱を握ることができなかった。晏嬰はそんな僕人の手を抑えてこう言った。


「麋鹿(『新序』では虎豹)は山林にいるが、その命は庖廚に握られているものだ。早く駆けたからといって死なないとは限らない。ゆっくり駆けたからといって死ぬとは限らないものだ」


 晏嬰は通常の態度を崩さず、馬を走らせた。そんな晏嬰を眺める晏父戎は、


(この人に仕えるのは、本当に難しい。また、大変だ)


 ため息をつくものの彼には笑みがある。


(それでもこの人に仕えるのは、楽しい)


「坊ちゃん。私は生涯、仕えますからね」


「そうでなければ、困ります。これからも社稷のために尽くさねばなりませんから」


 そんな晏嬰に晏父戎は笑った。











 その数日後、斉の景公と崔杼を始めとした諸大夫が莒君と盟を結んだ。莒君は荘公が生存中に入朝したが、崔杼の乱によって景公が即位したため、改めて盟が結ばれたのである。


 その後、崔杼が帰国すると朝廷に何かが掛けられていたそこにはこう書かれていた。


「崔杼がその君を殺す」


 斉の太史(大史)が書いたものである。これと同じようなことが晋にもあった。趙盾ちょうとんが晋の霊公れいこうを殺したと書かれた事件である。


 それをもちろん知っているであろう崔杼であったが、怒って太史を殺した。


 趙盾の名誉のために言っておくが、彼の場合これを書いた者を殺してはいない。


 趙盾は決して、褒められた人ではないが、崔杼よりは度量が大きかった。


 中国の人たちは歴史書に自分の名前が悪名として乗ることをとても恐れており、あなたのことをこのように残しますよと脅すことも可能なくらいである。それでも崔杼は趙盾のような悪名を残したくはなかった。


 しかしその翌日、同じ文章が朝廷にあった。


 書いたのは、昨日書いていた太史の弟である。


 崔杼はこの弟も殺した。だが、翌日また、同じ文章があった。しかも書いたのは、太史のもうひとりの弟であった。


 またもや崔杼は彼を殺した。ところが少弟も同じ文を書いた。崔杼は殺そうとしたが、彼の強い目を見て、ついにあきらめた。


 時の権力者とも言うべき崔杼は彼ら兄弟の生き様に敗れたのだ。


 この話には、南史氏は太史が殺されたと聞くと、簡(竹簡・木簡)に同じ文を書いて崔杼に会いに行こうとしていたが、太史の少弟が殺されなかったと聞いて帰った。


 彼らの生き方は歴史の影響を与えるどころか線香花火のように小さい光であり、ぱっと消える程度であり、歴史には何らの影響を与えることはない。しかしながら彼らが示した生き様は閃光でありながらも強烈であり、歴史を記す者の覚悟を後世に知らしめてみせ、それに感動を覚えた者が少ならずもいた。


 故に彼らのこの輝きは永遠に歴史書に乗ることになったのである。


 歴史に名を残すことはもしかすれば、誰かの心を震わせる生き方をすることが一つの条件なのかもしれない。






 斉の閭丘嬰(閭丘が氏)が帷幕で妻を包んで車に乗せ、申鮮虞しんせんぐと共に逃走した。二人とも荘公の近臣である。


 申鮮虞は閭丘嬰の妻を推して車から落とすとこう言った。


「主君が暗昏であったのにも関わらず、正すことができず、国君の危難を救えず、国君が死んでも自分は死ぬことができないのに、暱(愛する人。妻)を隠すことだけは知っているのか。そのような者を誰が受け入れるというのだ」


 閭丘嬰はこれに従った。


 二人は弇中(臨淄西南の狭道)で一泊した。閭丘嬰が言った。


「崔氏と慶氏が追ってくるのではないか?」


 申鮮虞は武器をもって、


「一対一なら恐れることは必要はなかろう」


 道が狭いため、相手が大軍を擁していても、一対一の戦いになるからである。


 そう言った後、申鮮虞は馬の手綱を枕にして寝た。馬が逃げるのを防ぐためである。


 目が覚めると、先に馬に餌をやってから自分も食事をして出発した。


 弇中を出て道が広くなると、申鮮虞が閭丘嬰に言った。


「速く走るぞ。崔氏と慶氏の衆にはかなわない」


 二人は魯に亡命した。


 崔杼は荘公の棺を北郭(北の外城)に置いた。本来は宗廟に置いてから葬儀が行われる。


 荘公の遺体は士孫の里に埋葬された。諸侯は死後五カ月で埋葬されるが、荘公は死んでから十三日しか経っていなかった。


 葬礼では四翣が使われた。翣は扇形の幟のようなもので、天子は八翣、諸侯は六翣、大夫は四翣と決められていた。つまり荘公には大夫の礼が使われたことになる。


 道路の清掃や警護はせず、葬送には下車(粗末な車)が七乗使われた。斉侯は上公に当たるので、本来なら九乗を使う資格があった。


 埋葬品には兵器甲冑を使わなかった。


 これも国君の葬礼からは外れたことである。


 崔杼の怒りの大きさがよくわかる。





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