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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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崔杼

 紀元前548年


 春、斉の崔杼さいちょが魯の北境を攻めた。前年、魯の仲孫羯ちゅうそんけつが斉を攻めたためである。


 魯の襄公じょうこうは斉を恐れて晋に報告した。


 魯の大夫・孟公綽もうこうしゅくが言った。


「崔杼は大志を持っており、我が国を相手にせず、すぐ還るはずでしょう。恐れることはございません。彼は今回、略奪をせず、民にも厳しくすることはないでしょう。民心を得ようとしているからです。以前の戦い方と異なっております」


 崔杼は暫くすると得る物もなく引き返した。


 そう彼の言うとおり、崔杼には大志があった。


 斉の棠公とうこうの妻・棠姜とうきょうは崔杼の家臣の一人である東郭偃とうかくえんの姉であった。


 棠公が死んだ時(具体的にいつの事かは不明)、東郭偃が崔杼の車を御して弔問に行った。


 そこで崔杼は棠姜(東郭偃の姉)の美貌を知り、惚れた。


 崔杼は帰ってから東郭偃を派遣して棠姜を娶ろうとした。しかし東郭偃はこう言って、諌めた。


「男女は姓を別けなければなりません(同姓は結婚できません)。あなた様は丁公ていこうの子孫で、私は桓公かんこうの子孫でございまして、どちらも姜姓でございます。よって婚姻はできません」


 それでも諦めきれない崔杼は筮を使って占わせた。恋は人を盲目にするものである。


 占いの結果、「困」が「大過」に変わると出た。


「困」は「坎下兌上」の卦で、「大過」は「巽下兌上」の卦である。「坎」は中男(壮年の男)を象徴し、兌は少女(若い女性)を象徴する。


 そのため太史達は「坎下兌上」の卦を見て、「壮年の男と若い女性の婚姻ならば、健全なので吉」と判断した。


 崔杼は陳須無ちんしゅむにも見せた。こうやって、占いを見せるほどに仲が良いと見るべきか、陳氏一門の顔の広さに驚くべきか。


 占いの結果を見た陳須無はこう言った。


「夫(中男。坎)が風(「巽」の卦は風を象徴する)に従い(「夫従風」。坎がある「困」の卦が「巽」がある「大過」の卦に変わったため、「夫は風に従う」という意味になる)、その風が妻を落とす(「風隕妻」。「大過」の卦は「巽下兌上」、つまり風である巽の上に少女である兌がある。少女は妻となる人なので、妻は風の上におり、いずれ落とされることになる)という意味になります。不吉と言うべき結果で、娶ってはならないかと思います。そもそもこの卦の繇辞は『石に困惑し、蒺棃(棘を持つ植物の名)に拠っているため、その宮に入って妻に会えない。故に凶なり』とされています。石に困惑するというのは前に進めないという意味であり、蒺棃がある場所にいれば必ず自らを傷つけるのです。宮に入って妻に会えず凶というのは、帰る場所がなくなるということでございます」


 しかし崔杼はこう言った。


「彼女は嫠(寡婦)に過ぎないではないか。何を恐れるというのか。凶兆は先夫の身に起きたのであろうよ」


 崔杼は棠姜を娶った。


(愛は才人を凡人に変えるか……)


 あの崔杼が女一人に目の色を変えている。実に滑稽であろう。


 陳須無は大笑いしたいことをぐっと我慢しながら、これをどう使おうと思った。


(楽しくなってきたな)


 彼は宮中を歩き、たまたま歩いていた大夫たちと世間話をし、その中に崔杼が美女を娶ったことを違和感なく、伝えた。


 それが廻りに廻り、斉の荘公そうこうの耳に入った。


「ほう、あの崔杼がなあ」


 崔杼と言えば、面白みに欠ける男であり、女にも興味が無いという男であると思っていた。


 興味を覚えた彼は崔杼の屋敷に遊びに行くと、棠姜を見た。


(おお、良い女だ)


 最近は面白いことが少ないだけに、棠姜を自分のものにしたいと思い、彼女に自分が国君であることで脅し、彼女と私通した。


 それからというものの、荘公はしばしば崔杼の家を訪れるようになった。


 男として悔しい崔杼であったが、それでも我慢した。


 だが、そのうち荘公が勝手に崔杼の冠を持ちだして、他の者に下賜したこともあった。侍者が諫めたが、荘公はこう言った。


「崔子の冠を使わなければ、他の冠はないのか?」


 つまり、崔杼の冠を使わなくても他にも冠はあるではないかという意味で、崔杼の冠も他の冠も同じであるから、気にすることはない、ということになる。


 この一件から、崔杼の家に出入りして棠姜と姦通していた荘公は、崔杼の私物にも手を出して平然としていたことがわかる。


 これを崔杼は自分への軽視と自分を権力の座からそのうち、引きずり落とそうとしているのではないかと考えた。


 女も権力も全てを奪おうとしていることに崔杼は荘公を憎むようになり、二年前に荘公が晋を攻撃した時には、


「晋は必ず報復に来る」


 と言い、荘公を殺して晋の歓心を買うという手段を考えるようにもなった。


 その準備を彼はこの年、着々と準備していた。


 荘公は侍人(宦官)・賈挙かきょを鞭打ったことがあったが、その後も近くに置いていた。


 どうにも斉の国君は暴力的で、警戒心が薄い人が多い。


 賈挙も荘公を憎んでいたため、崔杼と交わるようになり、荘公を殺す機会を探すようになった。


 五月(ここから本年の事)、且于の役(二年前)に勇士たちの活躍によって斉と講和した莒君が斉に入朝した。


 講和がなってから北郭で宴が開かれたが、崔杼は病と称して欠席した。


 その翌日、荘公は崔杼の見舞いを口実に崔杼の家を訪れた。棠姜に会うためです。棠姜は一度、部屋に入ったふりをしてから崔杼と共に横の戸から外に出た。


 彼女がいないことを知らない荘公は、部屋の外で柱を軽く叩きながら歌を歌った。歌で室内の棠姜に命に従うように伝えたのだ。


 その間に侍人・賈挙は他の従者が屋敷の中に入ることを禁止し、自分だけ門内に入って扉を閉めた。


 全ての準備が整うと崔杼が命じて、甲士が現れて荘公を襲いかかった。


 驚いた荘公は慌てて、楼台に登って命乞いしたが、甲士達は拒否した。


「ならば、盟を結ぼうではないか」


 荘公が改善を約束する盟を望んでも、甲士達は拒否する。


 次に荘公が宗廟での自刃を願っても、甲士達はやはり拒否し、こう言った。


「国君の臣・杼(崔杼)は疾病であるため、あなた様の命を聞くことができません。ここは公宮に近いため、陪臣(崔杼の臣。甲士達)は淫者を取り締まるように命じられております。それ以外の命は知りません」


 荘公が壁を乗り越えて逃れようとしたが、甲士が矢を射って、その矢は荘公の股に命中した。それによって、荘公は壁の内側に落ち、そこに甲士らが襲い掛かり、殺害した。


 斉の荘公という人は父である霊公れいこうを臆病者と思い、父のようにならないようにとしてきた男である。しかしながらこの男は霊公に非常に似ている。


 霊公は臆病で、権威や策略などの盾で隠れようとしていただけに過ぎず、荘公も勇士を集め、周りに並べて自分を守らせ、戦をすることで、自分が臆病ではないと見せかけていただけに過ぎない。


 二人は臆病者としてとても良く似た親子であった。


 されど、荘公が勇士たちを優遇したことは事実である。


 賈挙かきょ(崔杼に協力した賈挙とは別人)、州綽しゅうしゃく邴師へいし公孫敖こうそんごう封具ほうぐ鐸父たくほ襄伊じょうい僂堙ろうえん)は荘公のために崔杼の家を攻めたが、殺された。


 他にも荘公のために戦った勇士たちがいる。


 祝佗父しゅくたほは高唐にある斉の別廟で祭祀を行い、復命したところであったが、この事件を知り、弁(祭服の冠)を脱がずに崔杼の屋敷に駆けつけて、殺された。


 申蒯しんかいは海で漁をしていたが、乱を知ると国都に戻ろうとした。


 御者が言った。


「国君の無道は天下が知っております。死ぬ必要はないのではありませんか?」


 申蒯は言った。


「汝はなぜもっと早く忠告しなかったのだ。私は乱君の食(俸禄)を得てきたのだ。死ぬ時は治君(名君)に仕えよというのか。汝は努力せよ。汝まで死ぬことはないぞ」


 しかし御者は首を振って、答えた。


「あなたには乱主がおり、それに仕えて死ぬというのに、私は治長(優れた主)がいるにも関わらず、生き永らえることはできません」


 申蒯は門に到着すると、


「国君の死を聞いた。中に入れよ」


 と言った。


 門衛が崔杼に報告すると、崔杼は


「入れるな」


 と命じたため、申蒯はこう叫んだ。


「汝は私を疑うのか。ならば、汝に私の臂(腕)をやろうではないか」


 申蒯は崔杼を襲うつもりがない姿を見せるため、自分の腕を切って門衛に与えた。門衛が崔杼にそれを見せると、崔杼は八列の陣を敷いてから、


「中に入れろ」


 と命じた。


 門を入るや、申蒯は剣を抜き、天に向かって叫び、三踊(何回も跳びはねること。悲痛が極まった感情を表す動作)してから七列の士を殺した。しかし崔杼に達することなく、最後の一列と戦って殺された。


 御者も門外で殺された。


 他にも荊蒯芮という人物がほとんど同じような内容で、死んでいる。


 陳不占ちんふせんは国君の難を聞いて駆けつけようとした。しかし出発する前に食事をしようとしたが、さじを持てず、車に乗ろうとしても軾(車の前にある横木)をつかむことができなかった。


 御者がその様子を見て、


「このように怯えていて、役に立つのでしょうか」


 陳不占は震えながらも言った。


「国君のために死ぬのは義である。勇がないのは私(個人の事)である。私によって公(公の事。義)を害してはならないのだ」


 陳不占は車を走らせたが、戦闘の声や音を聞くと、恐怖のため死んでしまった。


 人々は、


「陳不占の勇は仁者の勇だ」


 と噂したと言う。


 さて、そのように多くの者が死ぬ中、崔杼の屋敷の前にやって来た者がいた。


 晏嬰あんえいである。




 



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