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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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勇士は琴を弾く

 魯の仲孫羯ちゅうそんけつが軍を率いて斉を攻めた。前年、斉が晋を攻めたため、晋のための出兵である。


 夏、楚の康王こうおうが舟師(水軍)を率いて呉を討伐を行った。しかし軍政がなかったため、戦功無く還った。


 軍政というのは軍の教育・訓戒という説と、賞罰の規定という説がある。どちらにしても楚軍は軍としての形をしっかりと構築することができなかったのである。


 楚という国はかつて尚武の国であった。今でもそうであると楚は考えているが、これではその資格は無いと言えるであろう。


 楚の荘王そうおうが築き上げた黄金の時代は既に終わっていたのである。


 それでも楚は晋に対抗できる国であると考える人は多い。斉の荘公もその一人である。


 彼は晋を攻撃してから恐れを抱くようになり、康王に会うことにした。臧紇ぞうこつは荘公を鼠と称したが、正しく楚という穴に隠れようとする鼠である。


 康王は薳啓疆いけいきょう(または「薳啓彊」)を斉に送って聘問し、会見の日時を決めた。


 斉は軍内で社(土地神)を祭ってから大規模な蒐(狩猟。閲兵)を行い、薳啓疆に見せて武威を示した。


 鼠の癖に自信過剰であるのが、荘公という人である。


 斉の陳須無ちんしゅむが言った。


「斉は寇(敵の侵略)を招くだろう。兵器をしまうことがなければ、兵器による禍を招くものである」


 武を誇る者は武によって、滅ぶ。それが天下の理である。では、謀を誇る者はやはり、謀で滅ぶのだろうか。


 陳無宇ちんむうは暗い笑みを浮かべる父を見ながらそう思った。






 秋、荘公は晋が出兵の準備をしていると聞き、陳無宇を薳啓疆に従わせて楚に送った。戦争が近いため会見ができないことを説明し、あわせて楚の出兵を請うた。


 崔杼さいちょが軍を率いて陳無宇等を送り出し、そのまま莒を攻撃して介根(莒の旧都)を侵した。


 晋の平公へいこう、魯の襄公じょうこう、宋の平公へいこう、衛の殤公しょうこう、鄭の簡公かんこう、曹の武公ぶこう、莒君、邾君、滕君、薛君、杞君、小邾君が夷儀(または「陳儀」。晋地)で会した。


 諸侯は斉を討伐しようとしたが、洪水のため中止した。


 冬、楚の康王、蔡の景公けいこう、陳の哀公あいこう、許の霊公れいこうが鄭を攻めた。斉を援けるためである。


 楚軍は鄭の東門を攻めてから、棘沢に駐軍した。晋を中心とする諸侯はこれを受け、夷儀から鄭の救援に向かった。


 晋は張骼ちょうかく輔躒ほれきを送って楚に戦いを挑ませた。


 地形に詳しい鄭人に御者を出させるよう命じた。鄭人は宛射犬えんせきけん(鄭の公孫。但し誰の孫に当たるかは不明。宛は食邑)を御者にすることを卜うと、吉と出たため彼を御者にすることにした。


 鄭の子太叔したいしゅくが宛射犬を戒めた。


「大国(晋)の人と対等の礼を行うような真似をしてはならない」


 宛射犬は不満を抱きながら、言った。


「衆寡に関係なく、御者は(大国でも小国でも、車右と車左より)上でございます」


 子太叔はため息をつき、


「それは違う。小山に松柏(大樹)は育たないものなのだ(大国と小国は平等ではない)」


 張骼と輔躒は陣の帳幄の中にいたが、宛射犬は外に坐らされ、二人の食事が終わってから宛射犬に食事をさせた。


 また、二人は宛射犬に広車(挑戦の時に使う戦車)を御させ、自分は通常の兵車に乗って移動する。


 これに宛射犬は怒りを覚え始めた。


 楚陣に近づくと二人は広車に移ったが、轉(車の後ろの横木)に坐って琴を弾き始めた。


 車が楚陣に接近すると、宛射犬は二人に告げずに突然馬を駆けさせた。驚いた二人は袋から冑を出して被り、楚の営塁に入るや、車から下りて楚兵を投げ飛ばしたり、捕虜にして脇の下に抱えた。


 すると宛射犬は二人を待たずに車を還した。


 またもや驚いた二人は車を追いかけて飛び乗ると、弓を抜き、楚の追手を射た。


 難を逃れた二人は再び轉に跪き、琴を牽くと宛射犬に言った。


「公孫よ。同じ車に乗ったら兄弟のようなものだ。なぜ二回とも声をかけなかったのだ」


 宛射犬が言った。


「最初は突入することで精いっぱいで、その後は敵の多勢を恐れたため、余裕がなかったのです」


 二人はこれを言い訳だとわかっていたが、笑いながら、


「公孫は性急せっかちであるなあ」


 と言って、琴を弾いた。清々しい人たちである。


 康王は棘沢から帰国し、薳啓彊に軍を預けて陳無宇を送り帰させた。










 呉は楚の舟師の役に報復するため、舒鳩(楚の属国)に揺すぶり、舒鳩は楚に背かせた。


 康王はこれを受けて、荒浦(舒鳩の地)に駐軍し、沈尹・寿じゅ師祁犂しきり(二人とも楚の大夫。師祁は官名を元にした氏。あるいは師が氏で祁犂が名)を送って舒鳩を譴責した。


 舒鳩君は恭しく二人を迎え入れて背反の事実はないと伝え、盟を受け入れることを望んだ。


 二人が復命した後、康王はそれを許さず、舒鳩を攻撃しようとした。これを薳子馮いしひょうが止めた。


「いけません。彼等は背いていないと申しており、盟を求めています。これを攻めれば、無罪を討伐することになります。今は帰国して民を休め、経過を見守るべきなのです。その結果、二心がなければ、それ以上望むことはございません。逆にもし本当に背くようならば、彼らには名分がないため、必ず討伐が成功しましょう」


 ただでさえ、軍事行動を繰り返しているだけに、無駄な出兵はやめるべきである。


 楚軍は引き上げた。


 陳が再び慶氏の党(前年参照)を討伐し、鍼宜咎けんぎきゅう陳鍼子ちんけいしの子孫)が楚に出奔した。


 前年、洛邑付近を流れる穀水が溢れ、洛水に合流した。その水流によって周王城が破損してしまった。


 この年、斉が郟(周都)の築城に協力した。斉は晋に背いたため、周の歓心を得ようとしたようである。


 魯の叔孫豹しゅくそんひょうが京師に行って周王室を聘問し、城の完成を祝賀した。周の霊王れいおうは叔孫豹が礼に則っていることを称賛し、大路(天子の車)を下賜した。


 



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