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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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士匄

 斉の荘公そうこうが莒との戦から帰還すると魯から亡命してきた臧紇ぞうこつに会い、彼に田(土地)を与えようとした。


 それを知った臧紇は、荘公に謁見した。


 荘公は自慢するように晋との戦いについて話すと、臧紇はこう言った。


「此度の戦では多くの功績を挙げられました。しかし国君は鼠のようです。鼠は昼に隠れて夜動き、寝廟(宗廟)に穴を掘ろうとは致しません。人を恐れるがためです。しかし、今、国君は晋の乱を聞き、兵を動かしましたが、晋が安定すれば、晋に仕えることになりましょう。これでは鼠と同じではありませんか」


 荘公は彼の言葉を不快に思い、田を与えるのをやめた。


 臧紇は荘公の命運が明るくないと判断していた。そのためこういう言い方をしたのである。


 この年、周の王城の北を流れる穀水と、王城の南を流れる洛水が溢れた。穀水が王城の西で南下し、洛水にぶつかり、水流によって王城の西南が破壊された。


 周の霊王れいおうはこれを受け、水流を塞ぐ工事を行った。


 この時、太子・しんが霊王を諫めたが、霊王は聞き入れなかった。彼の諫言はあまりにも長いので、省略する。


 紀元前549年


 春、魯の叔孫豹しゅくそんひょうは晋に行った。


 晋の士匄しかいが彼を迎え入れて質問した。


「古人は『不朽の死』という言葉を残されたが、これはどういうことであろうか?」


 叔孫豹は特に答えようとしないため、士匄が言った。


「私の祖先は、しゅん以前は陶唐氏、夏の時代は御龍氏、商の時代は豕韋氏、周の時代は唐杜氏であり、晋主が夏(中原)の盟主になってからは士氏となった。これを不朽というのであろうな」


 叔孫豹はそれを聞くと内心、嘲笑した。


「私が知る限りでは、それは世禄というものでございまして、不朽ではございません。魯の先大夫に臧孫辰ぞうそんしんという者がおりましたが、彼が死んでからもその言は生きております。これを不朽というのです。彼はこう言いました。『最も重要であるのは、徳を立てることである。次は功績を立てることである。その次は言を立てることだ』この言葉は既に久しくなるにも関わらず、忘れられておりません。これこそが不朽というものではありませんか。姓を保って氏を受け、宗祊(宗廟)を守って代々祭祀を途絶えさせない者は、どこの国にもいるものです。これは禄(官)が大きいのであって、不朽とはいえません」


 不朽の名を残すことがそんなものではない。彼は士匄の勘違いを笑った。


 晋の士匄が政事を行うようになってから諸侯の幣(盟主への貢物)が重くなった。鄭もその負担に苦しんでいた。


 二月、鄭の簡公かんこうが晋に入朝した時、子産しさん子西しせい公孫夏こうそんか。公子・の子。簡公の相として晋に同行していた)に書を預けて、士匄に渡すよう言った。


 その文章にはこうあった。


「あなたが国を治められるようになり久しく経ちますが、四鄰の諸侯から令徳(美徳)を聞いたことがなく、それにも関わらず、重幣に関することを耳にしました。きょう(子産)はこれに戸惑っております。君子が国や家を治める時は、財貨がないことを憂いとせず、令名(名声)がないことを難とすると申します。諸侯の財が晋の公室に集まれば、諸侯は二心を抱きましょう。もしもあなたが諸侯の財を自分の利とされますれば、晋の内部が分裂することでしょう。諸侯が背けば国が害を受け、国内部が分裂すれば、結局はあなたの家が害を受けましょう。何故それが理解できないのでしょうか。そうなった時、財貨が役に立ちでしょうか」


 あなたは自分の職務を果たしきれていないにも関わらず、自分の利益ばかりを考えるのは、どういうことか。言葉は穏やかであるものの、その内容は忠烈な非難である。


「令名とは徳を載せる輿(車)のようなものでございます。徳とは国家の基礎。基礎があれば破滅することはありません。そのため令名を得るために努力するのです。徳があれば楽しむことができ、楽しめれば長久を得ることができるのです。『詩』にこうあります。『君子とは楽しいものである。君子は国や家の基礎である』これは君子に令徳があるが故でございます。また、こういう句もあります『上帝が汝に臨まん。汝は徳に専心せよ』こうすることで令名を得ることができるのです。寛恕によって徳を明らかにすれば、令名が天下に行き届き、遠い者も帰順して近い者は安らかになりましょう。他者から『あなたのおかげで私は生きております』と言われる方がいいですか。それとも『あなたは私から搾取して生きているおられます』と言われたいですか。象は象牙を持っているために自分の身を損なうのです。それは象牙に価値があるからです」


 あなたは天下の主催者に等しい立場にありながらその様はなんだと言いたげの文章である。


 士匄はこの文章を読む間、書簡を持つ腕は震えていた。その様子に周りは恐怖したが、読み終えると彼は急に笑い出した。


「痛快なる文なり、誰が書いたものか?」


「子産と聞いております」


「左様か」


 聞き覚えの無い名である。


「いや、一度だけ聞いたことがあったな。確か……そうだ子蟜しきょう殿に聞いたのであった」


 子蟜は士匄に若いながら才能溢れる人物にして、必ずや卿になると言っていた。


「そうかこれがその子産が書いたものか」


 この文章には厳しさがある。だが、それ以上に大きな愛がある。


(民を思う愛、自国を思う愛)


 それと同時に彼は懐かしさも感じた。


「この文章を読むとまるで、父上の厳しさを思い出す」


 彼の父である士燮ししょうに彼は良く杖で叩かれながら叱られたものである。


「この国にこの者と同じような者がいるとすれば、誰であろうか?」


叔向しゅくきょう殿はどうでしょうか?」


 近侍する者がそう言うと士匄は首を振った。


「いや、あの者は確かに才はある。だが、この者には及ばない」


 自分に対して、同じような批難を彼はしたことはない。唯々、冷たい目線を送るだけである。


「この者の文には愛を感じることができる。だが、叔向に同じような愛はない。また、勇気もない」


 子産よりも近くにいるはずの叔向が批難しない。叔向だけではない。他の者たちも批難はしなかった。それでも子産は毅然とした態度で、批難してみせた。


(愛ある者は勇気も有するものだ)


「断言しよう。叔向は子産の名を越えることができない。越えることができるとすれば、趙武ちょうぶであろうか。いや、あの者は優しすぎるのと綺麗過ぎる。子産のような厳しさはできないだろう」


 汚れることで見える輝きというものもあるものだ。それが叔向も趙武も理解することはないだろう。そう思うと士匄は面白く感じた。


(我が国で称賛される二人よりも先に私は子産を知った)


 実に痛快である。


「子産こそ、我が国にいるべきだったのだ。惜しいことだ」


 自分なら子産を使いこなすことができる。彼はそう思った。


 彼は幣を軽くすることにし、簡公と直々に会うことにした。


 簡公は士匄に、幣を軽くするように請うのと同時に、陳の討伐も願い出た。


 更に彼を驚かしたことがあった。簡公が士匄に稽首したのである。


 流石の士匄も稽首を止めさせると、子西が言った。


「陳は大国(楚)に頼って我が国を侵しているのです。我が君はその罪を問うように請願しているのです。稽首しないわけにはいかないでしょう」


 国君とその大臣が一緒に稽首している。


(これが今の鄭か……)


 子産がいる。このような主従もいる。鄭はかつての鄭ではない。


(この国は尊重するべき国である)


「承知した。幣を軽くすることは決めていたのだが、鄭君とその臣下の願い。この士匄、聞き入れた」


「感謝します」


 二人は再び、稽首した。


(もし、この国君が我が国の国君であったのであれば、今どうなっていただろうか……子産がいたのであれば、どうなっていただろうか……)


 ふと、彼はそう考えた。







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