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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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人の度量

 七月、魯の叔老しゅくろう子叔斉子ししゅくせいし)が死んだ。


 秋、晋から出奔した欒盈らんえいは楚から斉に入った。楚は居心地が悪かったようで、そこに斉の荘公そうこうが彼を賓客として招いた。


 晏嬰あんえいはこのことを知り、荘公を諌めた。


「商任の会(前年)で晋の命をお受けになったにも関わらず、今、欒氏を受け入れてどうなさるつもりでしょうか。小国が大国に仕える時は信が必要です。信を失えば、立つことができません。欒氏を晋に帰すべきです」


 しかし荘公は彼の諫言を無視した。


 晏嬰が退出すると彼に近づいてきた者がいた。彼は陳須無ちんしゅむ陳完ちんかんの曾孫。陳無宇ちんむうの父)という。


「どうなさいましたかな」


 晏嬰は言った。


「人の君となる者は信を持ち、人の臣となる者は共(恭)を持ち、忠・信・篤・敬を上下が共にすることが、天の道と言えます。ですが、主公は自らそれを棄てておられます。その地位が久しいはずがないでしょう」


 それを聞いた陳須無は、


(ははあ、あれを諌めて受け入れなかったか)


 その後、晏嬰が退出すると、彼は一人密かに笑った。


(国の未来は暗い。されど我が家にとっては楽しくなってきたものだ)


 暗い笑みを浮かべる人である。






 九月、鄭の公孫黒肱こうそんこくこう(字は子張しちょう伯張はくちょうともいう)が病に倒れた。


 公孫黒肱は室老(家臣の長)と宗人(宗老。祭祀の礼を掌る者)を招いて子のだんを後嗣に立てさせた。


 あわせて家臣を減らし、祭祀を簡略にするように命じた。


 祭(通常の祭祀)では特羊(羊一頭)を使い、殷(大きな祭祀)では少牢(羊と豚)を使うことになり、祭祀に必要な物資を供給するだけの土地を残して、それ以外の邑は国に返した。


 彼は死ぬ前に段に言った。


「乱世に産まれれば、地位が尊貴であっても貧を守って民に要求しない者が、人よりも長く生きることができるという。主君と二三子(諸大夫)に恭しく仕えるようにせよ。生とは戒(警戒・慎重)にかかっている。富などは大切ではない」


 数日後、公孫黒肱が死んだ。


 己の子に対する戒めるとはこのことであると君子たちは彼を称えた。






 冬、晋の平公へいこう、魯の襄公じょうこう、斉の荘公そうこう、宋の平公へいこう、衛の殤公しょうこう、鄭の簡公かんこう、曹の武公ぶこう、莒君、邾君、滕君、薛君、杞君、小邾君が沙隨(宋地)で会した。


 諸侯が欒氏を受け入れないことを再び要求するためであるが、既に皆、斉が匿っていることを知っていると見てよく、斉への牽制と見るべきであろう。


 しかし荘公は追い出す気などは更々なかった。晏嬰はその様子からこう言った。


「禍が近づこうとしている。斉は晋を討とうとしているが、恐ろしいことである」


 



 


 この頃、楚の観起かんきは令尹・子南しなん(公子・追舒ついじょ)に寵信され、官位が低く禄も増えていないにも関わらず、数十乗の馬を持つようになっていた。


 楚の人々はこれを嫌い、楚の康王こうおうは討伐を計画するようになった。


 子南の子・棄疾きしつは康王の御士(侍臣)であった。


 康王が棄疾に会うたびに泣いたため、棄疾は疑問に思い、聞いた。


「王は私に対して三回泣きました。誰かが罪を犯したのでしょうか?」


 康王が答えた。


「令尹の不能(不善)は汝も知っていると思うが、国は彼を討伐しようとしている。汝はここに留まるのか(逃げないのか)?」


 ある意味、康王には甘さがある。


 棄疾が答えた。


「父が殺されたにも関わらず、子が留まったとして、国君はその子を用いることができましょうか。しかし君命を父に漏らして刑を重くすることも、私にはできません」


 その後、康王は朝廷で子南を殺し、観起を車裂に処して四境に晒した。


 子南の臣が棄疾に言った。


「尸(死体)を朝廷から運び出しましょう」


 棄疾は首を振り、


「君臣の間には礼がある。二三子(諸大臣)を見守ろうではないか」


 と同意しなかった。


 当時、処刑された者の死体が晒されるのは三日間と決められていた。


 三日後、棄疾が死体を運ぶことを請い、康王は許可した。


 子南の埋葬が終わると、部下が棄疾に問うた。


「どこかに逃げますか?」


「私は自分の父を殺す計画に関わったのだ。どこに行くというのか」


「それでは王にお仕えしますか?」


「父を棄て、仇に仕えることは私にはできない」


 棄疾は首を吊って死んだ。


 


 康王は薳子馮いしひょう)を令尹に任命した。公子・)が司馬に、屈建くつけん子木しぼく)が莫敖になった。


 薳子馮の寵臣は八人おり、皆、禄はないのに多数の馬を擁していた。


 ある日の朝廷で、薳子馮が申叔豫しんしゅくよに話しかけた。以前、助言をくれた人だからである。しかし、申叔豫は応えずに去った。


 薳子馮は後を追ったが、申叔豫は歩くのが早く、人の中に入り、更に追いかけると家に帰ってしまった。


 退朝してから(朝会が終わってから)薳子馮が申叔豫に会いに行ってこう言った。


「あなたは朝廷で三回も私を無視しましたのは、私に問題があるからでしょうか。私に過失があるというのであれば、教えて頂きたい」


 申叔豫が答えた。


「私は罪を得ることを恐れております。あなたと話すことはございません」


 薳子馮が聞いた。


「なぜ罪を得ると言われるのでしょうか?」


 申叔豫が再び、答えた。


「以前、観起は子南に寵されておりました。そのため、子南が罪を得て観起は車裂に処されましたた。なぜ畏れないというのでしょうか?」


 薳子馮は慌てて車を御して還った。しかし恐怖のためか車をうまく御せなかった。


 やっと思い出、家に着くと、八人に言った。


「私は申叔に会った。彼こそが死者を生き返らせ、骨に肉をつけることができる人物であると私は確信した。彼のように私を理解している者だけがここに残れ。そうでなければ交わりを絶つ」


 八人は去り、康王はやっと薳子馮を信用した。


「私は八人を愛していたが、その中に理解者はいなかった。されど私が幸せであったのは、申叔という理解者がおり、諌めてくれることである」


 彼は他者の言葉を聞き入れる度量があった。人の度量の差が人生を大きく分けるものである。






 十二月(十一月の誤りという説もある)、鄭の游眅ゆうはん(字は子明しめい公孫蠆(こうそんたいの子)が晋に向かう途中である出来事を彼は起こした。


 ある人が妻を娶り、家人が新婦を迎えに行っていた。


 鄭の国境を出ようとしていた游眅は、新郎の家に向かう新婦の一行に遭遇した。すると游眅は新婦を奪ってその地の邑に滞在したのである。


 妻を奪われた夫はこれに激怒、游眅を攻撃して殺し、妻を連れて逃走した。


 鄭の子展してんこの事件を知ると激怒し、游眅の子・りょう)を後継ぎに立てず、大叔たいしゅく世叔せしゅく游吉ゆうきつ。公孫蠆の別の子で、游眅の弟)に公孫蠆の家系を継がせた。


 子展が簡公に言った。


「国卿とは国君の貳(補佐)であり、民の主でございますので、慎重でなければなりません。子明の類の者は除くべきです」


 子展は妻を奪われた者を探して家に帰らせ、游氏には怨みを持たないように命じた。


「こうするのは悪を宣揚しないためである」


 双方が怨みを持てば、報復し合うことになる。それは游眅の醜悪を世間に広めてしまうため、それを防ぐための措置と言える。




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