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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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儒教の始祖

 晋から出奔した欒盈らんえいが周を通った。しかし周の西境で財物を奪われてしまった。そこで欒盈が行人(周王室が派遣した賓客の対応をする官)に言った。


「天子の陪臣・盈は王の守臣(晋の平公へいこう)の罪を得て亡命することになりましたが、今回また、郊甸(城外が郊、郊の外が甸。ここでは周の郊外・国境の意味)で罪を得ましたため(財物を奪われたことを指す)、隠れる場所がなくなってしまいました。よって死をかけて進言させていただきます。昔、陪臣・しょ欒書らんしょ)は王室のために尽力し、王から恩恵を施されましたが、その子・けん欒黶らんけんは父の功労を守ることができませんでした。しかしながら大君(周王)が書の努力を棄てておられなければ、亡臣(欒盈)にも逃げる場所があるかと考えます。逆にもし書の努力を棄てて黶の罪を問うならば、私は誅殺されても余りある身でございますので、帰国して尉氏(軍尉)のもとで死に、二度と戻りません。四体を晒すかどうかは(処刑されるかどうかは)、大君の命に従いましょう」


 周の霊王れいおうは晋が欒盈を出奔させたことを過ちと判断しており、それに倣ってはならないと考えていた。


「過ちと知りながらもそれを真似すれば、更に大きな過ちになる」


 と言い、司徒に命じて欒氏から奪った物を全て取り返させ、候人(賓客に道を案内する者)を送って轘轅山(険道)を越えさせた。


 しかしながら彼が本当にそのような思いで彼を優遇したのだろうか?


 霊王は斉と婚姻関係にあった。この婚姻を結んだのは、晋が諸侯の盟主として、天下を主導していることに反感を抱いており、晋への対抗勢力としての斉に期待したからである。


 だが、斉は晋に負けてしまった。彼としては悔しかったはずである。


 それの一種の抵抗であったのではないだろうか。










 十月、庚子(二十一日)という日は特別な日である。孔子こうしが産まれたからだ。彼の名はきゅう、字は仲尼ちゅうじである。


 因みに孔子の産まれた年は翌年の紀元前551年という説もあるが、ここでは、紀元前552年とする。


 ここで『史記・孔子世家』『孔子家語・本姓解(巻第九)』から孔子に関する記述を記す。


 孔丘は魯の昌平郷にある陬邑で産まれた。その祖先は宋人と言われている。


 かつて、宋の湣公びんこうが死んでから、弟の煬公ようこうが立ったが、湣公の子・鮒祀ふき(または「魴祀」)が煬公を殺した。


 鮒祀は湣公の庶子だったため、兄の弗父何ふつふか(湣公の太子)に即位を勧めたが、弗父何が拒否したため、鮒祀自ら即位した。これを宋の厲公れいこうという。


 弟に宋公の地位を譲った弗父何は、宋父周そうふしゅうを産み、周は世子勝せいししょうを産み、勝は正考父せいこうほ(または「正考甫」)を産み、考父は孔父嘉こうほかを産んだ。


 孔父嘉は木金父ぼくきんほを産み、木金父は祁父きほを産み、祁父は防叔ぼうしゅくを産んだ。


 この頃、宋の華氏による圧力を受け、孔父嘉は殺され、一族は魯に遷った。孔父嘉の子孫は魯で孔氏を名乗るようになった。


 孔防叔は伯夏はくかを産み、伯夏は叔梁紇しゅくりょうこつを産んだ。叔梁紇は勇猛な士として名が知られた人物である。


 叔梁紇と正妻の間には九人の娘が産まれたが、男児には恵まれなかった。


 しかし、妾が孟皮もうひ(字は伯尼はくじ)という男児を産んだものの、足に障害があり、家を継ぐことができなかった。


 そこで叔梁紇は魯の顔氏に婚姻を相談した。


 顔氏には三人の娘がいた。そこで顔氏が三人の娘に言った。


「陬大夫(陬邑の男。叔梁紇を指す)は父祖(父と祖父)ともに士であるが、その先祖は聖王の後裔である(彼の先祖のいた宋は商王族の子孫の国)。それに、彼の身長は十尺もあり、武力に優れているため、私は彼を見込んでいる。既に年をとり、性格も厳格であるものの、何、心配することはない。三人の中で、彼に嫁ごうという者はいないか」


 長女と次女は黙ったままであったが、三女の顔徴在がんびざいが進み出て言った。


「父上の決めたことに、異論を挟みません」


 彼女の言葉に顔氏は頷き、


「汝こそが相応しい」


 こうして顔徴在が叔梁紇に嫁ぐことになった。


 叔梁紇の家に入る前に、顔徴在は宗廟で叔梁紇に会った。


 この時、彼は父から聞いていた印象よりも老年だと感じた。夫の老齢を改めて知った顔徴在は、子ができないことを心配し、そこで秘かに尼丘の山に登って祈祷した。


 やがて顔徴在は孔丘を産んだ。彼の名である丘は尼丘の山に因んだものである。


 産まれた時から孔丘の頭に圩頂(凹になっていて丘のように見えること)があったため、丘と命名されたともいう。


 孔丘が三歳の時、父・叔梁紇が死んだ。叔梁紇は防山に埋葬されたが、顔徴在が教えなかったため、孔子は父の墓がどこにあるのか知らずに育った。


 結婚してすぐに夫に死なれたため、顔徴在は孔氏の人々に疎まれて夫の葬儀に参加できなかったのである。


 そのため顔徴在自身も叔梁紇の墓がどこにあるかを知らなかった。


 子供の頃の孔丘は木で俎や豆(どちらも祭祀で使う食器)を作り、儀礼の真似をして遊んだと言われている。


 後に母・顔徴在が死ぬと、孔丘は母の死体をすぐに埋葬せず、五父衢(地名。大通り)に置いた。


 その時、陬邑の人・輓父ばんほの母が孔子に叔梁紇の墓の場所を教えたため、孔子は顔徴在を叔梁紇と合葬することができた。


 孔丘がまだ母の喪に服していた時、魯の季孫氏が士を集めて宴を開いていた。孔丘も参加するために季孫氏の屋敷を尋ねた。


 しかし季孫氏の家臣・陽虎ようこが、


「季孫氏は士を招待したのである。汝を招待したわけではない」


 と言って拒否したため、孔丘は引き返した。

 

 ちょっとした因縁の関係になる二人である。


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