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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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季孫宿

 魯の季孫宿きそんしゅくが宋に行った。向戌しょうじゅつの聘問(紀元前558年)に謝すためである。


 褚師段ちょしだん(「褚師」は元は官名であるが、そこから生じた氏でもある。褚師段の字は子石しせき)が季孫宿を迎え入れて宴に招いた。


 季孫宿は『常棣(詩経・小雅)』の第七章と末章を賦した。家族兄弟の関係を歌った詩で、婚姻関係にある魯と宋の和親が目的の詩である。


 宋はそんな季孫宿に喜んだのか厚い礼物を贈った。


 


 季孫宿が帰国すると、魯の襄公じょうこう)が宴を開いた。季孫宿は『魚麗(詩経・小雅)』の末章を賦し、襄公は『南山有台(詩経・小雅)』を賦した。


『魚麗』は獲れたての新鮮な魚と美酒を描いた詩で、襄公が季孫宿を宋に派遣した時期がちょうどふさわしかったことを称えるために賦した。


『南山有台』は君子(優秀な人物)が国を補佐し、光をもたらすという内容で、季孫宿の使者としての業績を称賛している。


 季孫宿は席から離れて襄公に、


「私にはもったいない言葉でございます」


 と応えた。


 この頃、衛の甯殖ねいしょくが病に倒れ、子の甯喜ねいきに言った。


「私は主君の罪を得た。後悔しても及ばないことである。私の名は既に諸侯の策にこう書かれているだろう。『孫林父そんりんぼと甯殖がその君を駆逐した』と、お前は主公の帰国を助けてこのことを覆せ。もしも覆すことができたら、お前は私の子だ。しかしもしもできないようならば、鬼神になって飢えたとしても、汝の祭祀は受けない(子として認めない)」


 甯喜が同意してから、甯殖は死んだ。


 紀元前552年


 正月、襄公が晋に行った。斉討伐と邾田を得たことを拝謝するためである。


 邾の大夫・庶其しょきが漆と閭丘の地を挙げて魯に奔った。


 季孫宿は襄公の姑姊(襄公の父の姉妹。宣公せんこうの娘、成公せいこうの姉妹)を庶其に嫁がせ、従者にも賞賜を与えた。


 当時、魯では盗賊が横行していた。そこで、季孫宿が臧孫紇ぞうそんこつに言った。


「あなたはなぜ盗賊を詰(禁止)しないのか?」


 臧孫紇が答えた。


「私には詰することができず、その力もございません」


 季孫宿はその答えに疑問を感じ、聞いた。


「我が国には四封(四方の境界)があるではないか。なぜ盗賊を詰する(盗賊の出入りを禁止する)ことができないと言うのか。あなたは司寇であり、盗賊を取り締まるのが役目であろう。なぜ力がないと言えるのか」


 臧孫紇が鼻で笑うと答えた。


「あなたは外盗を招いて大礼で遇しております。なぜ国内の盗賊を詰することができるというのでしょうか?」


 国に一番の盗人を招いたのは季孫宿ではないか。


「あなたは正卿でありながら外盗を招き入れているにも関わらず、私に国内の盗賊を治めることができましょうか?庶其は邾の邑を盗んで来た人物です。それに対して子は姫氏を娶らせ、邑を与え、全ての従者にも賞賜を与えております。大盗に対し、国君の姑姊と大邑を用いて礼遇し、次の地位にいる従者にも馬を与え、最も身分が低い者にも衣裳や剣帯を与えるのは、盗賊を賞することではございませんか。一方で盗賊を賞し、一方では去らせるというのは困難というもの」


 盗人の侵入を防げと言っておきながら、侵入を許し、更にはその盗人に国君の叔母さえ与えて、礼遇している。それであるのに、他の盗人は侵入することを禁じるというのでは、道理に合わないではないか。


「上の位にいる者は己の心を清めて、誠実をもって人に対し、自分の行動を法度に則らせ、信を築いてそれを明確にしてから、やっと人を治めることができるのです。上の者の行動は、民が依拠とするもの。だからこそ、上の者がやらないことを民がやれば、刑罰を加えて警告することができるのです。上の者の行為を民が真似るのは当然のことではございませんか。なぜ禁じることができるのでしょうか。『夏書(尚書・大禹謨)』には『行いたいことも規範の中にあり、棄て去ってやらないことも規範の中にあり、言葉として発するのも規範の中にあり、内心から現れる真誠も規範の中にある。ただ帝だけがそれを記録できるのだ』とあります。これは言行(言葉による規範と実際の行動)が一致していることを言っているのです。信とは言行が一致することから生じるのです。そうなってから、始めて功績を記録することができるのです」


 季孫宿は言っていることとやっていることがあまりにも違いすぎる。そのような者が命じたことを誰が聞くというのか。


 季孫宿は彼の言葉に従った。














 斉の荘公そうこう慶佐けいさ崔杼さいちょの党)を大夫に任命し、公子・の余党を討伐させた。その一人である公子・ばいを句瀆の丘で捕える。


 公子・しょは魯に、叔孫還しゅくそんせんは燕に奔った。


 夏、楚の子庚しこうが死んだ。


 もしかすれば、以前、鄭を攻めた時に身体を壊したのかもしれない。


 楚の康王こうおうにその責任があるのだが、彼はそのようなことを気にするような人ではない。


 子庚の後任として薳子馮いしひょうを康王は令尹に任命することにした。それを知った薳子馮は申叔豫しんしゅくよ申叔時しんしゅくじの孫)を訪問して意見を聞いた。


 彼は康王が良い国王とは思えないからである。


 申叔豫はこう答えた。


「国に寵臣が多く、王は幼弱でございますので、国政を行う者(令尹)になるべきではないかと思います」


 この助言を聞き入れ、薳子馮は病と称して令尹を辞退した。


 ちょうど夏の暑い時期だったため、地を掘って氷を入れ、その上に床を置いてから、厚着をして食事を減らし(痩せるため)、床に寝て暮らした。


 康王はそんな彼を心配し、医者を送って看病した。


 戻った医者はこう報告した。


「非常に痩せ衰えておりますものの、血気は正常と言えましょう」


 病ではないということである。


 康王は薳子馮の意志を覚り、子南しなん(公子・追舒ついじょ荘王そうおうの子)を令尹に任命した。



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