勝者と敗者
斉の慶封は反旗を翻した夙沙衛が籠る高唐を包囲した。しかし、城が頑強であったのか。彼が戦下手なのか攻略することができないでいた。
十一月、それに苛立った斉の荘公は自ら高唐を包囲した。
荘公は城壁の上にいる夙沙衛を見つけると、大声で彼を招いた。
夙沙衛は城壁を下りて濠を隔てて、荘公に会った。
「城の守りはどうだ」
荘公が城内の守備について問うと、
「特にございません」
夙沙衛は何の備えも無いと答えた。荘公が揖礼したため、夙沙衛も揖礼を返して再び城壁を登った。
戻った夙沙衛は荘公の攻撃が近いと思い、高唐の人々に食事を与えた。
さて、この高唐城内には、殖綽がいた。前年、晋に捕えられていた人物である。ここで疑問なのは、何故彼がこんなところにいるのかということである。
ここで思い出されるのは、晋の士匄が斉を攻め、斉の霊公が死んだ時、退却したことである。
この時、彼の軍には殖綽がおり、夙沙衛が高唐で反旗を翻したのを見ると殖綽などの捕虜と兵を少し貸したのではないか。だとすれば、晋側としてはこの斉の内乱で夙沙衛側を応援したことになる。
だが、ここで誤算であったのは、殖綽が夙沙衛に恨みを抱いていたことであろう。
彼は工僂会(工僂が氏)と友に夜の間に城壁の上から縄を下ろし、斉軍を招き入れたのである。
その結果、内乱は長引かず、夙沙衛は軍中で殺された。
彼は霊公に忠実にあろうとした人物である。その思いは確かだったが、宦官であったことが彼の悲劇であった。
これに舌打ちしたかった士匄であるが、斉から使者がやってきた。和平をしたいと言ってきたのである。
斉の使者は恐らく、崔杼の指示であろう。彼は晋とまともに構えることを以前から支持してなかった。そのため、晋ら諸侯の連合軍が攻めてきた時、彼は霊公の近くにいなかった。
これに喜んだ士匄は同意、大隧(高唐)で会盟を行った。
魯の叔孫豹は晋の士匄と柯で会見した。
叔孫豹は叔向(羊舌肸)に会って『載馳(詩経・鄘風)』の第四章を賦した。大国に助けを求める内容である。
叔孫豹は斉の脅威が去ったとは思えなかった。更にひどくなるだろうとも考え、この詩を賦したのだ。
叔向も斉が本心から晋に帰服するつもりがないと判断していた。そのためこう言った。
「私があなたの命に背くことはございません」
叔孫豹は帰国してから、
「斉の危険はまだ去ってはいない。警戒しないわけにはいかない」
と言い、斉に備えるために築城していた西郛と合わせて、武城にも築城した。
この頃、衛の石買が死んだ。しかしその子・石悪は悲しみを見せることはなかった。
衛の卿・孔烝鉏は、
「これは根本を倒すことになる。彼に宗族を守れないだろう」
と言った。
紀元前553年
前年、督揚で諸侯が盟を結び、その中に魯と莒もいたため、敵対していた二国が講和することになった。
正月、魯の仲孫速が莒人と会し、向で盟を結んだ。
六月、晋の平公、魯の襄公、斉の荘公、宋の平公、衛び殤公、鄭の簡公、曹の武公と莒君、邾君、滕君、薛君、杞君、小邾君が澶淵(晋地。以前は衛地)で盟を結んだ。
斉が晋と講和したためである。
魯が連年の出征や会盟に参加していたため、邾は魯が反撃できないと思い、頻繁に国境を侵した。
そのため仲孫速が邾を攻撃した。
かつて蔡の文公は晋に仕えようとし、
「先君(荘公)は踐士の盟に参加した。晋は盟を棄てるはずがなく、しかも我々は晋と兄弟の国だ」
と言っていた。しかし楚を恐れていたため、晋との講和を実行できないまま死んだ。
その後、楚は際限の無い労役徴発を蔡に命じるようになった。
この年、公子・燮(または「湿」。荘公の子。大夫)が蔡のために文公の意志を継ごうとした。しかし蔡の国人は労役等の苦があっても楚の庇護下にあった方がいいと考えたため、公子・燮を殺してしまった。
公子・燮の同母弟にあたる公子・履は楚に出奔した。
この状況に微笑を浮かべる二人がいた。陳の実権を握っている卿・慶虎と慶寅である。
彼らは以前から陳の哀公の弟・黄(または「光」)が政権を握ることを恐れ、蔡の出来事を利用することにした。
彼らは楚にこう訴えた。
「公子・黄は蔡の司馬(公子・燮)と共に謀っておりました」
楚がこれに激怒して陳を討伐したたため、公子・黄は楚に出奔し、無罪を訴えた。
公子・黄は出奔前に国都でこう叫んだ。
「慶氏は無道であり、国の政治を独占しようとしている。国君を軽視し、国君の親族を排斥するのだから、五年の内に滅ばなければ天が存在しないことになるだろう」
だが、慶虎と慶寅はそれを嘲笑うだけである。彼らからすれば、彼は負け犬に過ぎないのだ。




