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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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二つの国の明暗

 かつて斉の霊公れいこうは魯から妻を娶っていた。これを顔懿姫がんいきという。しかし彼女との間には子ができなかった。


 だが、顔懿姫の姪・鬷声姫そうせいきが媵(正妻に従って一緒に嫁ぐ女性)となり、こうを産んだ。顔懿姫と鬷声姫はどちらも姫姓で、顔と鬷はそれぞれの母の姓、懿と声は諡号である。


 鬷声姫が産んだ光は太子になった。


 その他にも仲子(ちゅうし戎子じゅうしという内官(妃妾)がいた。どちらも子姓で、仲子は公子・を産んだ。


 霊公は戎子を特に寵愛していたため、仲子が産んだ牙を戎子に育てさせた。やがて、寵愛を利用して戎子は牙を太子に立てるように求めるようになった。霊公はこれに同意した。ところが実母の仲子が反対した。


「いけません。常規を廃するのは不祥でございます。諸侯に逆らえば、成功することはございません。光は太子になってから、諸侯の会に列席してきてきました。理由もなく廃しような真似をすれば、諸侯を軽視することになりましょう。難(成功が難しいこと)によって不祥を行えば、国君は必ず後悔することになります」


 既に斉の太子は光であると諸侯の会に列席させた以上、表明しているようなものなのである。それを覆す真似をすれば、非難は必至である。


 それを指摘した仲子は中々の見識を持った人である。


 しかし霊公は、


「私が決めることだ」


 と言って太子・光を東境に送った。そして、高厚(こうこう)を牙の太傅(教育官)とし、牙が太子に立てらた。夙沙衛しゅくさえいが少傅になった。


 彼はこの問題に対する考え方が仲子よりも劣っていたと言える。


 この年、霊公は晋の連合軍と戦い、散々に敗れたことに気を病んだのか病に倒れた。


 すると崔杼さいちょが秘かに光を迎え入れた。光の教育係は彼であったため、光の方が今後政治を行う上で、良いと彼は考えていた。また、諸侯の会に列席させるように進言したのは、彼なのである。それにも関わらず、太子を廃されては、面子が立たないのである。


 よって光を太子に復位させた。


 太子・光は復位するや、宮殿に兵を率いて、自分を廃そうとした戎子を殺してその死体を朝廷に晒した。


 この行為は流石に崔杼を始め、太子・光派の者たちでさえ、眉をひそめた。


 婦人がどんな罪を犯したとしても、その遺体を朝廷に晒すような真似はしないものであるからである。


(残虐な人だ)


 崔杼は彼にそういう感想を持ったが、ここまでいった以上、引き返すことはできない。


 だが、もしここで彼がこの件を引き合いに自分の立場と引換にしてでも、太子の座から引きずり下ろしていれば、彼の運命は少しは違ったものになったのかもしれない。


 そうはならないのが、運命という残酷さであるとも言える。


 五月、霊公はこの状況を知らないまま、世を去った。


 彼は臆病な人であった。そして、それを他者に知られることを誰よりも怖がった。そのため、気前の良いことを言い、強者のふりを続けた。


 だが、そのために多くの者が死んだことを思えば、彼の諡名が霊となったのは、太子・光の悪感情によるものであろうとも、妥当であると思われる。


 これにより、太子・光が即位した。これを斉の荘公そうこうという。


 彼によって、斉が暗い時代を送り始めるのである。


 即位した彼が行ったことは先ず、公子・牙を句瀆(または「句竇」)の丘(斉国境)で捕えることであった。


 その次に荘公は自分の廃位が夙沙衛によって進められたと思っていた。そのため彼を排除しようと考えた。


 危険を感じた夙沙衛は高唐に奔って反旗を翻した。


 この頃、晋の士匄しかいが斉を攻撃し、穀に至っていたが、霊公の死を聞いて退き返した。


 また、この時、崔杼が灑藍(臨淄城外)で高厚を殺し、その財産と采邑を兼併した。












 斉の霊公の死ぬ、ひと月前、 鄭の子蟜しきょう公孫蠆こうそんたい)が死に、晋の大夫に訃告が発せられていた。


 子蟜は晋が秦を攻めた時、率先して軍を率いた功績があることを士匄が彼の死と共に晋の平公へいこうに報告した。


 六月、平公が子蟜のために周の霊王れいおうに賞賜を請い、霊王は大路(天子の車)を下賜して葬車(子蟜の霊柩)と一緒に走ることを許可した。


 さて、子蟜の死を誰よりも喜んだ人物がいた。子孔しこう(公子・)である。


 これで、自分の思い通りに政治を行えると思った彼は専横をし始めたため、国人の憂いを招いた。


 そんな彼に怒りを覚えたのは、鄭の簡公かんこうである。


子産しさんよ。汝は私に国君の言葉というものは気をつけて使わなければならないと申した」


「はい」


 簡公の元に、子産の他、子展してん子西しせいが集まっている。


「それからはできる限り、多くの情報から判断するようにして、言葉を発することにした」


 彼はひと呼吸、置くと、


「されど、これから私情に近い言葉を発する」


 毅然とした態度で彼は命じた。


「子孔を殺せ」


 三人は拝礼をもって、答えた。


「お心のままに」


 彼らは西宮の難(紀元前563年)と純門の役(前年)の責任を問い、子孔を処罰するために動いた。


 子孔は危険を覚り、自分の甲士と子革しかく子良しりょうの甲士を集めて守りを固めた。


 子展してん子西しせい)が国人を率いて討伐を行った。


「おのれ、孺子共が」


 子孔が叫ぶ。そこに子皮しひが矛を持って、現れた。


「ここまでです。お覚悟を」


「何の証拠があるというのか」


「往生際が悪いですぞ」


尉止いしが何か喋ったのか」


 その言葉を聞くと子皮は目を細める。


「あの方は最後の最後まで、言いませんでしたよ」


 そう言うと彼は矛をそのまま突き出し、子孔の喉を貫いた。


 彼の兵たちも鎮圧され、彼の家財や采邑は国人に分けられた。


 子孔は子然しぜんと母が同じで母は宋子そうしという、士子孔ししこう(公子・)の母は圭嬀けいぎという。どちらも鄭の穆公ぼくこうの妾である。圭嬀は宋子よりも身分が下あったが、二人は仲が良く、二人の子も一緒に育った。


 紀元前567年に子然が死に、紀元前565年に士子孔も死んだ。当時、司徒を勤めていた子孔は、子革(子然の子)と子良(士子孔の子)を援け、三家は一つのように協力していた。


 そのため此度の件において、二人の兵は子孔に協力したのである。


 子孔が殺されると、子革と子良は楚に出奔した。子革は後に楚で右尹に任命されることになる。


 鄭は子展を当国に、子西を聴政にし、子産を卿に立てた。


 鄭に明るい時代が訪れつつあった。


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