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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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立派な丈夫

 紀元前554年


 正月、斉を討伐を行っていた諸侯は沂水から引き上げ、督揚で盟を結んだ。督揚は祝柯(または「祝阿」)ともいう。


 盟に参加したのは晋の平公へいこう、魯の襄公じょうこう、宋の平公へいこう、衛の殤公しょうこう、鄭の簡公かんこう、曹の成公せいこうと莒君・邾君・滕君・薛君・杞君・小邾君の十二国である。


 この会盟で、


「大国が小国を侵してはならない」


 と決められた。


 晋はこの会盟で邾の悼公とうこうを捕えた。二年前に魯を侵していたためである。


 魯の襄公が斉討伐から帰還し、諸侯は泗水沿岸に駐軍して魯の国境を定めた。魯は邾の田(土地)を取り、漷水以西の地が魯に編入された。


「此度の戦で斉は最早、我々に逆らおうとは思わないでしょうな」


 士匄しかい荀偃じゅんえんに言った。


「そうであってもらいたいが、斉は自尊心の強い国だ。気をつけねばならん」


 荀偃はそう言うが、士匄としては、斉にそんな力は無いと考えていた。


「士匄よ。お前は私よりも頭の良く、要領の良い男だと思っている。だが、お前は人を下に見るところがある。気をつけねばならんぞ」


 彼の言葉に士匄は頷きながらも、内心では、


(ふん、あなたに言われてもな)


 そう考えて、深くは考えなかった。


 晋の平公が先に帰国した。襄公は晋の六卿を蒲圃でもてなし、三命の服(車服)を与えた。軍尉・司馬・司空・輿尉・候奄にも一命の服を与え、荀偃には束錦加璧(璧で装飾された五匹の錦)、乗馬(四頭の馬)と呉寿夢の鼎を贈った。


「感謝します」


 荀偃はそう答えているものの、顔は青ざめ、身体は震えていた。


「大丈夫ですか」


 皆、彼を案じるが、彼は気にするなと言い、帰国するための準備を周りのものたちに行わせた。


 晋軍は帰国するため、黄河を渡り始めると荀偃に腫物ができて頭部がただれて始めた。そして、黄河を渡って著雍に着いた頃、病がひどくなって眼球が飛び出してしまった。


 荀偃の状況を知った先に帰国していた大夫達は引き返し、士匄が荀偃に会見を求めた。しかし、荀偃はこれを拒否した。


 士匄は仕方ないため、人を送って誰に荀偃を継がせるべきか問うた。最早、助からないと判断したからである。


 荀偃は、


鄭甥ていせい荀呉じゅんご。その母が鄭人だったため、鄭甥ともいう)が良い」


 と答えた。


 二月、荀偃は死んだ。


 彼は目は閉じず、口を固く閉めていた。当時の風習で、死体の口に玉を入れる風習があったが、これではそれを行うことができない。


 士匄は荀偃の死体を撫でて言った。


「あなたに仕えた時と同じように荀呉にも仕えることでしょう」


 しかし荀偃の目は開いたままであった。


 欒盈らんえいが、


「斉の討伐が満足いくものではないのではないのですか」


 と、言うため士匄は再び、死体を撫でながら言った。


「あなたの臨終後、斉の事(斉を服従させること)を受け継がないようであれば、私は河神の咎を受けるでしょう」


 すると荀偃は目を閉じ、口を開いた。


 退出した士匄が呟いた。


「私は浅はかだった。荀偃という人を立派な丈夫として見ることができなかった」


 荀偃は家の事よりも国の事を想っていたにも関わらず、士匄はそれを理解することができなかったのである。


 荀偃という人は国君を殺すという大罪を犯し、欒書らんしょのような引き際の良さも無ければ、韓厥かんけつのような戦の才も無く、士匄のような器用さも無い。


 されど、国を思う気持ちはあり、それを不器用ながらも示して、彼は亡くなった。


 彼は十分、立派な丈夫と言えるのではないのだろうか。










 魯の季孫宿きそんしゅくが晋に行った。斉討伐の感謝のためである。


 晋の平公へいこうがもてなした。


 荀偃が死んだため、中軍の佐・士匄が政事を行っていた。そのため士匄は季孫宿に『黍苗(詩経・小雅)』を賦した。


 雨のおかげで黍苗が育つという内容で、雨は晋、黍苗は魯等の小国の比喩である。


 季孫宿は立ち上がって再拝稽首し、


「小国が大国を仰ぐのは、百穀が雨の潤いを仰ぐようなものでございます。常に潤いを与えられれば、天下は和睦することでしょう。我が国だけの恩恵に留まりません」


 と言って『六月(詩経・小雅)』を賦した。周の尹吉甫いんきつほが周の宣王せんおうを援けて征伐する詩で、覇者の晋が尹吉甫にあたる。


 その後、帰国した季孫宿が斉との戦いで得た兵器を使い、林鐘を造って魯の功を銘文にした。


 しかし臧孫紇ぞうそんこつが季孫宿に言った。


「礼から外れております。銘は、天子はその徳を記し、諸侯は行動が時の利に応じて功を立てた時、それを記し、大夫は征伐を行えば、記すもの。征伐を記すというのは(大夫が対象であるため)等級を下げることになります。功を記録するとしても、それは人(晋)の力を借りたもの。時の利においては、多くの民事の妨げとなっております。それにも関わらず、何を銘とするのでしょうか。大国が小国を討伐し、戦で得た物で彝器(宗廟の器具)を作り、功烈を銘文にして子孫に示すことは、徳を明らかにして無礼を懲らしめるためです。今回は人の力を借りて自分の死を救ったのです。銘文にすることはありません。小国が幸いにも大国に勝ち、そこで得た物を顕示すれば、大国の怒りを買うことになりましょう。それは亡国の道となりましょう」


 これにより、彼はやめた。


 夏、衛の孫林父そんりんぼが斉を攻め、晋の欒魴らんほうも軍を率いて衛の斉討伐に従った。





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