斉の霊公
大変、遅くなりました。
十一月、晋を中心とする諸侯の軍が平陰に入り、斉軍を追撃した。
夙沙衛は大車を連ねて山道を塞ぎ、自ら殿軍になろうとした。しかし、これに殖綽と郭最が反対した。
「あなたが国軍の殿軍を務めるのは、斉の恥となります。先に逃げてください」
夙沙衛は彼なりに国のために闘おうとしている。その気持ちに偽りは無いつもりである。しかし、彼が宦官であることが、その思いは否定されるのだ。
(宦官がなんだ。国のために働くことに何の違いがあるというのか)
内心、憤った彼は二人が後方を守ることになると馬を殺して狭い道を塞いだ。
「おのれ、あの宦官めが」
殖綽は激怒しながら矛を振るながら逃走しようとすると晋の州綽が斉軍に追いついた。
彼は弓を構え、矢を射た。彼の矢は殖綽の左右の肩に中った。
州綽は弓を構えながら言った。
「退却を止めて、三軍(晋軍)の捕虜になれ、このまま止めなければ汝の中心を射るぞ」
殖綽が振り返る。
「それがまことならば、私誓(個人と個人の誓い)を行え」
州綽は天を指し、答えた。
「殺さないことを日(太陽)に誓おう」
州綽は弓の弦を解いて殖綽の手を後ろに縛った。州綽の車右・具丙も武器を置いて郭最を縛る。
殖綽と郭最は甲冑を着たまま手を後ろに縛られ、晋の中軍の戦鼓の下に坐らされた。
晋軍は続いて、斉の残兵を掃討しようとした。しかし魯と衛が険要な地の攻撃を求めた。そこで晋軍は戦地を拡大した。
荀偃と士匄は中軍を率いて京茲を攻略し、魏絳と欒盈は下軍を率いて邿を攻略した。
趙武と韓起も上軍を率いて盧を包囲したが、落とせなかった。
京茲、邿、盧は泰山山脈に位置する険阻な地である。
それにしても斉はここまで晋に好き放題やられているものである。いや、それだけ晋の兵が強かったと思うべきであろうか。
斉の霊公としても晋との戦いの範囲が拡大したことで、相手に隙が生まれると考えていた。
(そうだ。あの地で戦い続けていれば、数の暴力で潰されていただろう)
彼は撤退したことへの言い訳を心の内でしながら晋の後方や、守りの薄い所を狙おうとした。
霊公の取った手段は合理的であった。しかし、現実は非情であった。尚も、晋の侵攻を止められず、侵攻を許してしまっていた。
(何故だ)
霊公は叫びたかった。
彼の合理性を上回ったのは、なんであろうか。それは晋の兵たちがいつもの晋の兵ではなかった。
晋の兵たちは荀偃の執念が乗り移ったかのような戦いをしていたのである。
執念と合理性がぶつかると、時として執念が上回る時がある。
十二月、連合軍が秦周(斉都・臨淄の郊外)に至った。
そして、雍門(臨淄西門)で萩の木を伐った。攻城の器具を造るためである。
士鞅が雍門を攻撃し、御者の追喜が戈を使って門内で犬を殺した。
また、魯の仲孫速が橁(木の名)を伐って魯の襄公のために琴を作った。
戦中に何をしているのかという疑問が覚えるかもしれないが、この犬を殺したり琴を作ったというのは、余裕がある戦いだったことを意味するのである。
その後、雍門と西郭、南郭に火がつけられた。晋の大夫・劉難と士弱が諸侯の軍を率いて申池(申門の外。申門は斉城南面の第一門)の竹木を焼いた。
更に東郭と北郭にも火がつけられた。士鞅が揚門(西北門)を攻め、州綽が東閭(東門)を攻める。しかし兵車が多く道が狭いため、州綽の左驂(馬車の左の馬)が動けなくなった。
州綽は久しく門内で停滞していたが、後に
「門に使われている銅の釘を全て数えていたのだ」
と、戦の中での余裕を見せていたとした。
苛烈な晋の侵攻に霊公は郵棠に逃げようとした。ある意味、自身消失に近かったのだろう。
すると太子・光と大夫・郭栄が馬を引き止めた。
「諸侯の軍は行動が速く勇猛でございます。これは物資を略奪するためです」
つまり、速さを重視した電撃戦に似た戦いをしているのであり、長期滞在して土地を取るためではないと彼らは言うのである。
「彼らがすぐに撤退するというのに、主公は何を恐れるのでしょう。そもそも、社稷の主は軽々しく動いてはならないもの。主公が軽率では衆を失います。主公はここで待機するべきです」
それでも霊公が逃げようとした。それに怒った太子・光が剣を抜き、鞅(馬の首にかけられた革)を斬ってあきらめさせた。
(なんと弱気な父だろうか。私はこうはならんぞ)
彼はそう父親を見た。彼にとって、霊公は負け犬だった。
諸侯の軍は進撃を続き、東は濰水、南は沂水に至った。
この諸侯の軍に一つ、悲しいことがあった。
斉討伐中、曹の成公が陣中で亡くなったのである。子の滕(または「勝」)が立ち、これを曹の武公という。
また、その頃、諸侯の軍に鄭も参加していたのだが、鄭軍にある報告はもたらされていた。




