荀偃
紀元前555年
夏、晋が長子で衛の石買を捕え、純留で孫蒯を捕えた。前年、曹が晋に訴えたためである。
秋、斉が魯の北境を攻撃した。
晋の荀偃はこれを受け、斉を討伐を宣言した。その宣言をする表情は鬼気迫るものがあった。
荀偃はある夢を見た。
晋の厲公に会い、討論して言い負かされ、厲公が戈で荀偃を撃つと、荀偃の首が前に落ち、彼は跪いて首を持ち、走って梗陽(晋邑)まで逃げ、巫皋(巫人。皋が名)に会ったという夢である。
後日、荀偃が道を歩いていると、夢で見た巫皋に会った。
荀偃は夢の話を巫皋に伝えると、巫皋も同じ夢を見ており、こう言った。
「今年、主(卿大夫。あなた)は死にましょう。しかしもしも東方で事(戦事)が起きれば、あなたは志を満足させることができます」
因みに荀偃は周暦の翌年二月に死ぬが晋が使っていた夏暦では本年十二月になる。
荀偃は彼の言葉を聞き、斉との戦いのことであると思った。
(私は、流されるままに主君を殺害するという大罪を犯し、のうのうと生きてきた。これが国への最後のご奉公となる)
彼は己の身命を賭して、斉討伐の成功を望んだ。
晋の平公も擁し、晋軍は斉討伐を開始し、黄河を渡ろうとした。
荀偃が朱絲(赤い糸)で二瑴(二対)の玉を結び、
「斉の環(斉の霊公の名)は険阻な地形と衆庶(人が多いこと)を頼みにし、友好を棄てて盟に背き、神主(民)を虐げようとしている。よって曾臣(陪臣。天子の臣)・彪(平公の名)が諸侯を率い、これを討伐し、その官臣・偃(荀偃)が前後を補佐せん。戦勝によって功があらば、神を辱めずにすむ。官臣・偃が再び黄河を渡ることはない(晋に帰ることはない)。ただ神の裁きに任せるだけである」
荀偃は玉を黄河に沈めて渡河した。
十月、晋の平公、魯の襄公、宋の平公、衛の殤公、鄭の簡公、曹の成公と莒君・邾君・滕君・薛君・杞君・小邾君が魯の済水沿岸で会合し、二年前に結んだ湨梁の盟を再確認してから斉討伐に向かった。
晋の中軍の将は荀偃、佐は士匄、上軍の将は趙武、佐は韓起、下軍の将は魏絳、佐は欒盈である。
斉の霊公は晋の連合軍接近を受け、平陰で迎え討つことにし、防門(平陰南)に一里にもおよぶ広さの塹壕を掘らせ、立てこもった。
夙沙衛が進言した。
「戦いが不利ならば、険阻な地に趣き、守備を固めるべきです」
平陰は大軍を相手取る上で、余りにも広すぎる。大軍を相手するのであれば、もっと守る安いところにするべきである。
しかし、霊公は聞き入れなかった。
諸侯の士卒が防門を攻撃すると、多くの斉人が死んだ。
「斉君はまるで亀のように出てきませんなあ」
諸侯らは霊公が立てこもったままでいることを嘲笑う。
「荀偃殿、正直に相手の守りに付き合う必要はないでしょう。一つ、私にお任せ願いませんかな」
士匄がそう進言すると荀偃は頷いた。
士匄は斉の大夫・子家と仲が良かったため、彼の元に使者を出した。この男は人付き合いが上手いのか、顔が広い。
使者は子家にこう言った。
「私はあなたを理解しているつもりだ。あなたに隠しごとはできない。魯と莒が車千乗で攻撃することを申し出たため、それを許可した。もしも攻撃が始まれば、貴国の主君は国を失うことになる。あなたはよく考えるべきだ」
子家はこれを霊公に報告すると、霊公は恐れを抱いた。
この頃、喪に服していた晏嬰の元に、部下が諸侯連合が侵攻したことを伝えられた。
「国君は無勇である」
と彼は言った。
霊公は口では、強がったことを言うものの、その実、臆病であると晏嬰は思っている。
(臆病な人間ほど、武器を無闇に振り回すものだ)
霊公は晋にも諸国にも内心、恐れている。それを隠そうとして、魯に無闇に喧嘩を売ったりとしているのである。
(斉はかつての晋との戦以上に酷い負けをするだろう)
霊公は巫山に登って晋軍を眺めた。
この時、士匄が司馬に命じて山沢の険を開かせ、道が通じていない場所にも旆(大旗)を立てさせ、兵車の左には兵を立たせ、右には偽の兵を置いた。
旆が先に進み、兵車の後ろには柴を牽かせて砂塵を舞い上がらせた。
それを見た霊公は、諸侯の大軍が迫っていると思い、逃走を図った。
国君である霊公が逃げる以上、これ以上の戦闘の継続は難しい斉軍は夜に乗じて退却し始めた。
晋の師曠が平公に言った。
「鳥烏の声が楽しみを帯びております。斉軍が遁走したのでしょう」
晋の大夫・邢伯も荀偃に言った。
「馬が還る時の声が聞こえます。斉軍が遁走したのでしょう」
叔向も平公に言った。
「城(平陰)の上に烏がおります。斉軍が遁走した証拠です」
晋は軍を逃走する斉軍に向け、動かした。




