大夫の礼
冬、宋の華閲が死んだ。彼は華元の息子である。
華閲の弟の華臣は兄の家を乗っ取ることを考えていた。そして、兄の死ぬと兄の息子の皋比の勢力が弱いと考え、賊を使って宰(家宰。総管)・華呉を殺害させた。
また、彼は華呉を殺す上で、六人の賊を用意し、鈹(剣のような武器)を持たせ、盧門(宋の城門)にある合左師の家の裏で華呉を殺させた、
合左師というのは向戌のことで、左師は官名である。彼の采邑が合郷だったため、合左師と呼ばれていた。
向戌は賊が自分の家の裏にいるため、自分を殺そうとしていると思った。恐れた彼は賊に言った。
「私は無罪だ」
賊はそう答えた。
「皋比は内々で呉を討伐しようとしていた。だから殺したのだ。向戌を殺すつもりはない」
賊の言葉は事実ではない。華呉を殺害した口実である。
その後、賊は華呉の妻を幽閉して大璧を強要した。
これを聞いた宋の平公は朝廷でこう言った。
「華臣は己の宗室に対して横暴なだけではなく、国の政治も大いに乱れさせている。追放するべきであろう」
向戌がこれに反対した。
「華臣も一国の卿です。大臣の不順(不和)は国の恥となります。公にせず、隠すべきです」
この下らない状況を知られれば、国の面子が立たないと考えたのだ。
平公は彼に従って、華臣を処罰しなかった。
しかし向戌は内心では、大いに華臣を嫌ったため、短策(短い鞭)を作り、華臣の家の前を通る時は馬を鞭打って走りすぎた。
十一月、宋の国人が瘈狗(狂犬)を駆逐していた。
瘈狗は国人たちに追われて、華臣の家に逃げた。
国人が瘈狗を追って華臣の家に集まると、華臣は自分が襲撃されたと思って、恐れて陳に出奔した。その様を見ていた国人はびっくり、宋の大臣もびっくりした。
彼が陳に突然、出奔したことで、ここまでの経緯が他国にも知らされるようになったため、宋が隠そうとしたことは結局、後世にまで、伝えられることになった。
この頃、宋の皇国父が大宰となり、平公のために楼台を築くことになった。
民が動員され、農業に影響が出るほどに民に労働を強いた。
それを見た子罕は収穫後に延期するように進言したが、平公は同意することはなかった。
築者(工事に動員された民衆)は歌を作り、歌った。
「沢門(宋東城の南門)の白面(皇国父)が、我々を引っ張り出して、労役をもたらしている。邑中(城内)の黒顔(子罕)は、我々の心を慰めている」
これを聞いた子罕は自ら扑(竹鞭)を持って築者を監視した。
まじめに働かない者を打って、
「我々小人にも闔廬(家屋)があって燥湿寒暑を避けることができるではないか、今、主公が一つの楼台を造ろうとしているにも関わらず、なかなか完成しない。これでいいと思うのか」
と叱咤した。
その結果、歌を歌う者はいなくなった。
流石にあの子罕がと、思ったある人は子罕になぜ厳しくするのか問うと子罕は、
「宋は小国である。それなのに詛(怨みの言葉)と祝(称賛の言葉)が併存するのでは、禍の本になる」
と答えた。
小国が生き残る難しさを彼は言ったのである。
この頃、斉の晏弱は床に伏せっていた。
息子の晏嬰は父に対し、常に離れることなく、看病を続けていた。
「嬰よ。お前は多くの者と違い、小さい身体で生まれてきたが、恥じることはない」
晏弱は息子にか細い声で言った。
「私は自分の身体など、気にしておりません。私は国のために働くだけです」
晏嬰はそう答えた。それを見て、晏弱は微笑し、
「お前は強い子だ」
と言った。
「そうだ。お前はそれで良い。例え、身体は小さくとも心は雄大であれ、それができれば、お前はとても大きな男になれる」
この数日後、晏弱は世を去った。
晏嬰は麤縗斬(粗末な喪服)、苴絰(麻の帽子)、苴帯(麻の帯)、苴杖(竹杖)、菅屨(草履)を身につけ、粥を食べ、倚廬(喪に服す時に住む草の部屋)に住み、苫(蓆)に寝て草を枕にした。
これは本来、士の礼であり、晏嬰は大夫である。そのため、晏氏の家宰が、
「これは大夫の礼ではございません」
と言った。これに対して晏嬰は、
「卿なればこそ、大夫の礼を用いることができる」
と答えた。これは本来、諸侯の卿は天子の大夫であるため、斉(諸侯)の大夫である晏嬰は天子の前では士になる。
そこで謙遜して、
「私が大夫の礼を用いるのは相応しくない。そのため士の礼を用いるのである」
と言ったのである。
これは周王朝が有名無実となり、諸侯は自国の権威を守るために国力を上げる内に、貴族間において、自分たちの権威の向上を招き、その結果、本来であれば、晏嬰のようにすべきところが歪んでしまったのかもしれない。
晏嬰は本来、守るべき礼を自らを持って、蘇らせたのである。
彼は喪に服す前、臣下にこう命じた。
「もし、国難の時は情報を伝えてもらいたい」
こうして、彼は喪に服した。彼が喪に服す中、斉は大きな危機に直面しようとしていた。




