表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

324/557

大夫の礼

 冬、宋の華閲かえつが死んだ。彼は華元かげんの息子である。


 華閲の弟の華臣かしんは兄の家を乗っ取ることを考えていた。そして、兄の死ぬと兄の息子の皋比こうひの勢力が弱いと考え、賊を使って宰(家宰。総管)・華呉かごを殺害させた。


 また、彼は華呉を殺す上で、六人の賊を用意し、鈹(剣のような武器)を持たせ、盧門(宋の城門)にある合左師の家の裏で華呉を殺させた、


 合左師というのは向戌しょうじゅつのことで、左師は官名である。彼の采邑が合郷だったため、合左師と呼ばれていた。


 向戌は賊が自分の家の裏にいるため、自分を殺そうとしていると思った。恐れた彼は賊に言った。


「私は無罪だ」


 賊はそう答えた。


「皋比は内々で呉を討伐しようとしていた。だから殺したのだ。向戌を殺すつもりはない」


 賊の言葉は事実ではない。華呉を殺害した口実である。


 その後、賊は華呉の妻を幽閉して大璧を強要した。


 これを聞いた宋の平公へいこうは朝廷でこう言った。


「華臣は己の宗室に対して横暴なだけではなく、国の政治も大いに乱れさせている。追放するべきであろう」


 向戌がこれに反対した。


「華臣も一国の卿です。大臣の不順(不和)は国の恥となります。公にせず、隠すべきです」


 この下らない状況を知られれば、国の面子が立たないと考えたのだ。


 平公は彼に従って、華臣を処罰しなかった。


 しかし向戌は内心では、大いに華臣を嫌ったため、短策(短い鞭)を作り、華臣の家の前を通る時は馬を鞭打って走りすぎた。


 十一月、宋の国人が瘈狗(狂犬)を駆逐していた。


 瘈狗は国人たちに追われて、華臣の家に逃げた。


 国人が瘈狗を追って華臣の家に集まると、華臣は自分が襲撃されたと思って、恐れて陳に出奔した。その様を見ていた国人はびっくり、宋の大臣もびっくりした。


 彼が陳に突然、出奔したことで、ここまでの経緯が他国にも知らされるようになったため、宋が隠そうとしたことは結局、後世にまで、伝えられることになった。










 この頃、宋の皇国父こうこくほが大宰となり、平公のために楼台を築くことになった。


 民が動員され、農業に影響が出るほどに民に労働を強いた。


 それを見た子罕しかんは収穫後に延期するように進言したが、平公は同意することはなかった。


 築者(工事に動員された民衆)は歌を作り、歌った。


「沢門(宋東城の南門)の白面(皇国父)が、我々を引っ張り出して、労役をもたらしている。邑中(城内)の黒顔(子罕)は、我々の心を慰めている」


 これを聞いた子罕は自ら扑(竹鞭)を持って築者を監視した。


 まじめに働かない者を打って、


「我々小人にも闔廬(家屋)があって燥湿寒暑を避けることができるではないか、今、主公が一つの楼台を造ろうとしているにも関わらず、なかなか完成しない。これでいいと思うのか」


 と叱咤した。


 その結果、歌を歌う者はいなくなった。


 流石にあの子罕がと、思ったある人は子罕になぜ厳しくするのか問うと子罕は、


「宋は小国である。それなのに詛(怨みの言葉)と祝(称賛の言葉)が併存するのでは、禍の本になる」


 と答えた。


 小国が生き残る難しさを彼は言ったのである。












 この頃、斉の晏弱あんじゃくは床に伏せっていた。


 息子の晏嬰は父に対し、常に離れることなく、看病を続けていた。


「嬰よ。お前は多くの者と違い、小さい身体で生まれてきたが、恥じることはない」


 晏弱は息子にか細い声で言った。


「私は自分の身体など、気にしておりません。私は国のために働くだけです」


 晏嬰はそう答えた。それを見て、晏弱は微笑し、


「お前は強い子だ」


 と言った。


「そうだ。お前はそれで良い。例え、身体は小さくとも心は雄大であれ、それができれば、お前はとても大きな男になれる」


 この数日後、晏弱は世を去った。


 晏嬰は麤縗斬(粗末な喪服)、苴絰(麻の帽子)、苴帯(麻の帯)、苴杖(竹杖)、菅屨(草履)を身につけ、粥を食べ、倚廬(喪に服す時に住む草の部屋)に住み、苫(蓆)に寝て草を枕にした。


 これは本来、士の礼であり、晏嬰は大夫である。そのため、晏氏の家宰が、


「これは大夫の礼ではございません」


 と言った。これに対して晏嬰は、


「卿なればこそ、大夫の礼を用いることができる」


 と答えた。これは本来、諸侯の卿は天子の大夫であるため、斉(諸侯)の大夫である晏嬰は天子の前では士になる。


 そこで謙遜して、


「私が大夫の礼を用いるのは相応しくない。そのため士の礼を用いるのである」


 と言ったのである。


 これは周王朝が有名無実となり、諸侯は自国の権威を守るために国力を上げる内に、貴族間において、自分たちの権威の向上を招き、その結果、本来であれば、晏嬰のようにすべきところが歪んでしまったのかもしれない。


 晏嬰は本来、守るべき礼を自らを持って、蘇らせたのである。


 彼は喪に服す前、臣下にこう命じた。


「もし、国難の時は情報を伝えてもらいたい」


 こうして、彼は喪に服した。彼が喪に服す中、斉は大きな危機に直面しようとしていた。


 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ