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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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湨梁の会

 夏、斉の霊公れいこうは晋の同盟国である魯の北境を侵した。


「ふん、羽毛一つ返さない国などに従いたくはない」


 霊公は更に軍を成(郕)に進め、包囲した。


 魯の襄公じょうこうは成を援けるため、遇(魯地)に至り、季孫宿と叔孫豹しゅくそんひょうが軍を率いて成郛(外城)を築いて、斉軍に抵抗した。


 秋、斉への進行に合わせるように邾が魯の南境を攻撃した。


 魯は堪らず、晋に急を告げた。


 これを受け、晋は諸侯を集めて邾と莒(前年、魯を攻めた)を討伐しようとしたが、晋の悼公とうこうが病に倒れたため中止した。


 そして、十一月、晋の悼公は死んだ。悼公は十四歳で即位したため、まだ三十歳という若さであった。


 悼公の子・彪が立った。これを晋の平公へいこうという。


 諸侯は晋の名君の死と盟主国に幼君が立ったことに不安を覚える中、鄭の卿・子西が晋を弔問し、子蟜しきょう公孫蠆こうそんたい)が悼公を送葬した。


 真っ先にこのような態度を取れた鄭は信用を得ることになる。


 紀元前557年


 年が明け、正月、晋が悼公を埋葬した。


 平公が正式に即位したことになり、羊舌肸ようぜつきつ叔向しゅくきょう)が傅(太傅。教育官)に、張君臣ちょうくんしん張老ちょうろうの子)が中軍司馬に、祁奚きけい韓襄かんじょう韓無忌かんむきの子)、欒盈らんえい士鞅しおうが公族大夫に、虞丘書ぐきゅうしょ(虞丘が氏)が乗馬御に任命された。


 この人事で面白いのは、引退して、隠居していたはずの祁奚がいることである。彼からすれば、この人事は迷惑この上ないが、それだけ彼の名声があったとも言える。


 平公は喪服を脱いで吉服に改め、官員を整理し、曲沃で烝祭を行った。


 その後、平公はというよりは、晋の重臣たちは指示であるが、国都の警護を固め、黄河を下って湨梁に向かった。


 三月、晋の平公、魯の襄公、宋の平公へいこう、衛の殤公しょうこう、鄭の簡公かんこう、曹の成公せいこうおよび莒の犂比公れいひこう・邾の宣公せんこう・薛君・杞君・小邾君が湨梁で会した。


 この会に斉を呼んでいたが、来たのは国君の霊公れいこうではなく、高厚こうこうが参加してきた。


 斉は晋に不信感を抱いている証拠であると皆、思う中、平公は諸侯が互いに侵した土地を返還するように命じた。


 前年と前々年、莒と邾が魯を侵したため、平公は邾の宣公と莒の犂比公を捕えて言った。


「二国は斉と楚の間に使者を往来させていた」


  つまり、晋に従おうとしない国と通じていたということを捕らえる理由にしたのである。


 次に平公は温で宴を開いて諸侯をもてなし、諸侯の大夫に舞を披露させて、


「舞は歌詩と必ず一致しなければならない」


 と言った。平公は音楽と美術を愛する人物である。


 諸侯の代表らは、言われた通りにする中、斉の高厚は舞に合わそうとしなかった。そのため荀偃じゅんえんが怒って言った。


「諸侯に異志(異心)がある」


 晋は諸侯の大夫と高厚に絶好するための盟約を結ばせることにした。これを結ぶのは都合が悪いため高厚は逃げ帰った。


 この後、晋の荀偃、魯の叔孫豹、宋の向戌しゅうじゅつ、衛の甯殖ねいしょく、鄭の公孫蠆こうそんたいと小邾の大夫が盟を結び、


「共に不庭(入朝しない者。盟主に逆らう者)を討たん」


 と約束した。このように結束を固めようとしたものの、ここで許の霊公れいこうが晋に遷都を請うた。


 許は楚の附庸国となり、葉に遷都していた。しかし、今回、晋に遷都を求めたのは、楚から離れて晋に帰順しようとしていたからである。


 ところが、諸侯が同意しようとした時、許を遷そうとすると許の大夫が晋に附くことに反対し始めた。


 そうこの遷都と晋に帰順しようとするのは、霊公の独断であったのである。


 大いに不快になった晋は諸侯を解散し、晋だけで許の大夫を討伐することにした。


 許によって、会の面目を潰されたからである。


 鄭の子蟜しきょうが晋の許討伐を知り、簡公に討伐に参加するように進言し、相(補佐)となって討伐に参加した。


 これに魯の叔老しゅくろう、晋の荀偃、鄭の簡公、衛の甯殖および宋と会して許を討伐に参加した。


 六月、連合軍が棫林(許地)に進み、許を攻めて函氏(許地)にまで侵攻した。


 更に晋の荀偃は諸侯の軍を先に撤兵させ、欒黶らんえんと共に晋だけで楚を攻撃した。宋の楊梁の役の報復である。


 楚の公子・かくが湛阪で晋軍に対抗したが、晋軍に敗れた。勢いに乗る晋軍は方城(楚の北境)の外を攻撃し、再び許を討伐して兵を還した。


 まだ、晋は盟主というべき力を持っているとこの戦で主張したのである。


 意地悪な見方をすれば、武力でしか自国の立場を証明できないとも言える。盟主という立場を保つのは大変なものである。








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