国君となるべきは
前年、晋の中軍の将・知罃と下軍の佐・士魴が死んだ。
晋の知氏は、荀首、知罃と継承されてきて、知罃は知朔を産み、知朔は知盈を産んだ。
知盈が六歳の時、知罃が死んだのだが、彼の父・知朔も以前に死んでいたため、幼い知盈では官職を継ぐことは無理であった。
また、士魴の子・彘裘もまだ幼かった。そのため新軍を統率できる人材がいなくなっていた。
そこで晋の悼公は新軍を廃止することにした。
元々、周代の軍制では、王六軍、大国三軍、次国二軍、小国一軍と決められていた。それ故、今回、新軍を廃して、三軍に戻したことで晋には礼があると評価された。
さて、そんな晋の悼公の傍には、師曠(楽師。字は子野)という人物が仕えていた。
ある日、悼公が彼に問いかけた。
「衛人はその君を追い出したが、やり過ぎではないか」
彼は衛の献公が出奔した事件について聞いた。それに師曠が事も無げに答えた。
「あるいはその君がひどかったのでしょう」
彼は言葉を続ける。
「良君は善を賞し、淫(悪)を罰し、民を我が子のように養い、天のように覆い、地のように受け入れるものです。故に民はその君を奉じ、父母のように愛し、日月のように仰ぎ見て、神明のように敬い、雷霆のように恐れるのです。このようであれば国君が民に駆逐されることはありません」
衛君にはそのような態度がなかったのではないか。
「国君とは神の主(祭祀の主催者)であり、民の望でもございます。民の財を窮乏させ、神の祭祀を失わせ、百姓が絶望させ、社稷に主がいなくなったのであれば、国君は必要なくなります。放逐されるのも当然ではございませんか。天が民を生み、その君を立てて統治させるは、民の性(天性。本質。民の業)を失わせないためだからです」
好ましくない国君など、民からすれば、いらない存在であり、その統治など受けたくないと思うのは当然である。
「主君を立てて貳(卿佐)を置くのは、彼等に主君を師保(教育・保護)させて過度を防ぐためです。だから天子には公がおり、諸侯には卿がおり、卿には側室がおり、大夫には貳宗がおり、士には朋友がおり、庶人・工・商・皁・隸・牧・圉も皆、親しくして互いに輔佐するのでございます。善であれば賞し、過失があれば正し、患があればそれを救い、失(欠陥)があれば改める。王以下、それぞれの立場の者が、父兄子弟の観察を受けて過ちを補うのです」
そういう好ましい存在が上に立った時にそれを補わせることによって、国の、天下の調和を取るのだ。
「史(太史)は書(歴史書)に記録し、瞽(楽師)は詩を賦し、工(楽工)は箴諫(戒め諫める言葉)を詠み、大夫は教導し、士は言を伝え(士は身分が低いため、国君の過失を見つけたら大夫に伝える)、庶人は謗し(国君の過失を指摘して話しあい)、商旅(商人)は市で議論し、百工は技芸を献じるのです。そのため『夏書(尚書・胤征)』には『遒人(政令を伝える官)は木鐸をもって路を巡り、官師(一官の長)は互いに戒めあい、工匠は技芸を使って諫め合う』とあるのです。正月孟春(初春)に遒人が路を歩くのは、常道を失ったことを諫めるためです(国君に直接意見を言うことができない民衆は、正月に巡行する遒人を通して進言する)。天は民を深く愛しております。一人の者を民の上に置いて淫(悪)を恣にさせ、天地の性を棄てさせるはずはございません」
つまり、衛の献公を国から追い出したのは、民の怒りが天に通じたからであり、それほど献公の政治は酷かったために追い出したのと彼は言うのである。
(民を慈しめる者が、天下の国主となるべきなのだ)
師曠はそう考えている。そして、その天下の国主となるべきは、悼公であるとも考えている。
次に悼公は治国について訪ねた。彼はこう答えた。
「ただ仁義を本とするだけでございます」
「なるほど」
悼公が頷くのを見ながら、師曠は思う。
(それでもこの方はそうはなれていない)
難しいものである。
秋、楚が呉を攻撃した。前年、呉が楚を侵したためである(庸浦の役)。
子囊(公子・貞)が棠に駐軍したが、呉軍が動かないため、兵を還すことにした。子囊が自ら、殿軍になったのだが内心、子囊は呉軍を軽視して警戒を怠っていた。
呉軍は楚軍の動きを見て、それを察すると皋舟(呉地)の険阻な地形を利用して楚軍を急襲し、楚軍を分断させた。
楚軍は互いに助け合うことができず、公子・宜穀が捕えられてしまった。
子囊は呉を討伐できず、呉軍に大敗したことで意気消沈したことで、帰国してから間もなく死んだ。
彼は死ぬ前に、子庚(公子・午)にこう遺言した。
「郢に城を築け」
当時、郢は既に楚の都だったので、当然、城はある。そのため子囊の遺言による郢の城というのは、楚都の東南に位置する新しい城のようである。
子囊は死ぬ間際まで国を守ることを忘れなかった忠臣として称えられた。
気苦労の耐えなかった人でもある。
周の霊王が劉夏(定公)を斉に送り、霊公に命を下した。
「昔、伯舅の大公(太公・呂尚。斉の祖)は我が先王を補佐し、周室の股肱として万民を師保した。よって代々大師(太師。呂尚)の功績に報い、東海諸国の表(表率。模範。諸侯の長)としてきたのである。王室が敗壊しないのは、伯舅のおかげである。今、汝・環(斉の霊公の名)に命じる。舅氏(異姓の諸侯)の典(常法)を絶えることなく遵守し、祖考(祖先)を継ぎ、旧(先人)を辱めず、恭敬であれ。朕の命を損なうな」
晋の悼公が荀偃に衛の乱について意見を求めた。
荀偃は言った。
「現状にあわせて安定させるべきと私は考えます。衛には既に国君がいます。討伐しても志を得ることができるとは限らず、逆に諸侯の労を招きましょう。史佚(周初期の史官)はこう言っております。『固定した物は動かさず、按撫せよ』と、仲虺(商王朝・湯王の左相)もこう言っております。『亡んだ者を軽蔑し、乱れた者を取る。滅亡に瀕した者を滅ぼし、存在する者を固める。これが国の道というものである』と、主公は衛を安定させて、時機を待つべきです」
冬、晋の士匄、魯の季孫宿、宋の華閲、衛の孫林父、鄭の公孫蠆および莒人と邾人が戚(孫林父の采邑)で会して、衛の安定を図った。
晋の代表として、出席した士匄だが、実は彼は斉から羽毛(儀仗の装飾。舞楽でも使われました)を借りていたのだが、それを返さなかったため、斉が晋に対して不信感を抱くようになっていた。
諸侯の盟主である国の大臣がこのようなことをしている。愚かなことであり、師曠が望むように、悼公が天下の真の支配者になれないのは、この上であろう。




