狐裘而羔袖
孫林父によって、衛の献公の出奔したことを聞いた魯の襄公は厚成叔(厚孫。厚が氏。または「后」「郈」。魯の孝公が恵伯・革を産み、その子孫が厚氏を名乗った)を衛に派遣した。
厚成叔が献公不在の衛の朝廷で言った。
「我が君(襄公)が私を派遣したのは、貴国の主君が社稷を失い、他境を流亡していると聞いたからです。慰問しないわけにはいきません。我が君は衛と同盟の関係にあるため、私を送って執事(献公の臣下。諸大夫)にこう伝えさせました。『(衛の)国君は不善で臣下は不敏(聡明ではないこと)である。しかも、国君は寛大ではなく、臣下も職責を果たそうとしない。今、怨みが久しく積もっていたものが、ついに発散された。(衛の諸大夫は)どうするつもりだ?』と」
孫林父は衛の定公の頃から衛の公室と対立していた。
それを今まで、ほっといていた君たちに今まで通りの関係を続けても良いか。という襄公からの問いである。
衛は大叔儀を魯に送って答えた。
「群臣が不才で我が君(献公)の罪を得ましたが、我が君は刑を用いることなく、群臣を棄てて去りました。それが貴君を心配させております。貴君は先君の誼を忘れず、群臣を慰問し、哀憐をくださりました。慰問を感謝し、哀憐に拝謝させていただきます」
厚成叔が帰国して臧孫紇に衛の様子を話すと、臧孫紇はこう言った。
「衛君は帰ることができるであろう。大叔儀が国内を守り、母弟の子鮮が国外で衛君に従っている。国内を按撫する者と国外を経営する者がいるのであれば、帰国できないはずはないだろう」
この人は戦は滅法、弱いが政務に関しては中々のものを持っているのだが、やはり戦での敗北の印象が強かったため、余り信じられなかった。
斉は献公を郲に住ませた。何らかの利用価値があると判断したからである。
因みにこの十二年後、やっと帰国することになった献公は郲の食糧を持ち還ったという。やはりこの人は国君としては、暗君である。
右宰・穀はそんな献公に従っていたが、途中で衛に逃げ帰った。
衛人は穀が帰国すると捕えて、殺そうとした。すると穀はこう言った。
「私は喜んで従ったのではないのです。狐裘を着て羔袖をつけておりました」
この『狐裘を着て羔袖をつけおりました』は原文では『狐裘而羔袖』だが、どうにも理解が難しいため、楊伯峻の『春秋左伝注』から二つの解釈を紹介する。
狐裘は狐の毛で作った貴重な服のことを言い、ここでは善を表す。羔袖は子羊の毛で作った粗末な袖のことで、ここでは悪を表す。そのことを踏まえて、『狐裘而羔袖』を直訳してみると、
「全身は狐裘を着て、腕だけは羔袖を着たのだ」
となる。そのため狐裘、つまり善の部分の方が、全身を纏っているため、膳の部分は多く。羔袖、つまり悪の部分は腕だけであるため、悪の部分は少ないというようになる。
それにより、
「私は献公に従ったが罪は多くない」
という意味に解釈できるようになる。
もう一つは、
「狐裘であるにも関わらず、羔袖がついている」
という解釈で、これは根本と末端が異なるというような意味で、献公と自分の一心ではなかったという意味になる。
どちらの解釈かは兎も角、衛人らは右宰・穀を赦した。
当時では、彼の言葉の意味は直ぐにわかることができたようである。
出奔した献公の代わりに国君を務める者が必要であるため、衛人は公孫剽(子叔。穆公の孫)を国君に立てた。これを衛の殤公といい、孫林父と甯殖を相にした。
また、即位した殤公は孫林父を宿に封じた。
献公が郲にいるため、魯の臧孫紇が斉に入って献公を慰問した。
しかし献公の態度が粗暴だったため、退出した臧孫紇が部下に言った。
「衛君は国に帰ることができない。その言は糞土に等しいからだ。亡命しながら態度を改めないようでは、復国などできるはずがない」
それを聞いた献公に従っている子展と子鮮が臧孫紇に会った。
二人の話は道理を持って、彼の言葉の訂正を求めた。
彼らの話し方に喜んだ臧孫紇が部下に言った。
「衛君は国に入ることができるだろう。あの二子は、あるいは引き、あるいは推すことができる。彼等がいれば、国に帰れないはずがない」
暗君であったても、良き臣下がいれば、何とかなるものである。




