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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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孫林父

 遷延の役の後、衛の献公けんこう孫林父そんりんぼ甯殖ねいしょくを食事に誘った。


 二人とも朝服を着て朝廷で献公が来るのを待った。しかし、日が暮れようとしても献公は二人を招かず、囿(林園)で鴻(雁)を射て遊んでいのである。


 二人は献公に会うために囿に行った。


 二人に会った献公は皮冠(白鹿の皮で造った狩猟用の帽子)も脱がずに話しかけた。


 当時、正装である朝服を着た臣下に会う際は主君とはいえ、皮冠を脱ぐことが礼とされていた。


 そのため二人は自分たちを軽視しているのだと思い、献公の無礼に怒り、孫林父は食邑の戚に去った。


 孫林父は食邑に戻ってから頭を冷やしたのか息子の孫蒯そんかいを入朝させ、様子を見に行かせた。


 献公は彼を酒宴を開いてもてなし、大師(太師。楽官の長)に『巧言(詩経・小雅)』の末章を歌わせた。


 内容は『彼は何者であろうか。黄河の辺に住んでいる。拳も勇もないにも関わらず、乱の根源になっているぞ』というものである。


 これは孫林父を非難することが目的と言える詩である。


 内容から意図を察した大師は歌を辞退した。だが、師曹しそうが買って出た。


 かつて、献公には嬖妾(寵妾)がおり、師曹に琴を教えさせたことがあった。しかしながらその嬖妾はどうにもやる気がなく、上達しなかったため、師曹は嬖妾を鞭で打った。


 当時では、鞭を使って、叱ることは普通である。


 そのことに怒った献公は師曹を三百回鞭打ちにした。


 これをもって献公を怨んでいる師曹は『巧言』を歌うことで孫林父を怒らせて、復讐しようと考えたのだ。


 それを知らない献公は師曹に歌わせた。この人は人の憎しみというものの怖さを理解していない。


 孫蒯は歌を聞くと恐れを抱き、急いで帰って、孫林父に報告した。


 孫林父は憤りを顕にすると共に、恐れて言った。


「国君は私を嫌っている。先に動かなければ、殺されるだけだ」


 孫林父は国都・帝丘と食邑・戚の家衆を全て集めてから、帝丘に入った。


 その帝丘で彼は蘧伯玉きょはくぎょくに出会った。彼は衛において名臣の誉れ高く、民衆の心を掴んでいた人物であった。


 そのため孫林父は彼を味方につければ、献公を国から追い出しても批難を浴びることはないと考えた。この男は自分の命が掛かった状況においても政治的立場を考えるところがある。


 彼は蘧伯玉に言った。


「主公の暴虐はあなたも知っていることであろう。私は社稷の傾覆を恐れている。あなたはどうなさる」


 どうか自分のこれからの行動を肯定してもらいたいと含んだ言葉である。だが、蘧伯玉は安易にこれに乗るような男ではない。


「国君がその国を制しているのです。臣下である者が敢えて犯す必要がありましょうか。国君を犯したとしても、新君が旧君よりも優れているとはかぎらないではありませんか」


 蘧伯玉は禍を避けるために孫林父から離れ、最も近い関を通って国を出た。













 一方、孫林父の怒りにやっと恐れを抱いた献公は子蟜しきょう子伯しはく子皮しひ(三人とも衛の公子)を送って丘宮(都内)で孫林父と会盟させて和解しようとしたが、孫林父は三人とも殺してしまった。


 献公は三人が殺されたことを知ると弟の子展してんに頼ろうとしたが、彼は既に斉に出奔していた。


 そこで献公は鄄に入った。彼はどうにかこの状況を何とかしようと子行しこうを送って孫林父に和を請わせた。だが、孫林父は子行も殺した。


 献公は最早、和を結ぶのは無理と判断し、弟のいる斉に逃走を図った。


 孫林父からすれば、献公を逃せば、厄介なことになる。彼は追撃して河沢(または「阿沢」「柯沢」)で献公の兵を破った。更に鄄の人々が敗残兵を捕えた。


 以前、尹公佗いんこうた庚公差こうこうさ(字は子魚しぎょ)に射術を習い、庚公差は公孫丁こうそんていに射術を習った。


 孫林父が挙兵した時、尹公佗と庚公差が献公を追撃し、公孫丁が献公の御者を務めていた。


 庚公差は追撃中に言った。


「矢を射れば、師に背くことになるだろう。だが、射なければ戮を招く(殺される)だろう。射ることが礼に合っているはずであろう」


 庚公差は左右両方の軥(馬の首と馬車をつなぐ部分)に矢を命中させて退き返した。


 しかし尹公佗は、


「あなたにとっては(公孫丁は)師でございますが、私は無関係ですので」


 と言って、献公の追撃を続けた。


 公孫丁はこれを見て、


(無礼な男よ)


 彼は献公に手綱をあずけ、尹公佗に向かって矢を放った。矢は尹公佗の腕を貫いた。


 子鮮しせん(献公の同母弟)が献公に従って国境に至った。


 献公は祝宗に命じて祖先に亡命を報告させた。この時、自分の無罪も訴えようとした。


 だが、定姜ていきょう(衛の定公ていこうの夫人。献公の嫡母。献公の実母は敬姒けいじ)が止めた。


「もしも神がいないのであれば、報告しても無駄ではありませんか。もしも神がいるのなら、偽ってはなりません。あなたには罪があるにも関わらず、なぜ無罪と報告するのです。大臣を棄てて小臣と謀ってきたのが一つ目の罪です。先君は冢卿(正卿)を師保としたのに、あなたは軽視した。これが二つ目の罪です。私は巾櫛をもって先君につかえてきたにも関わらず、あなたは私を妾(婢妾)のように遇してきた。これが三つ目の罪です。亡命だけを報告しなさい。無罪を訴える必要はないでしょう」


  彼はこれに従った。





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