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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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遷延の役

 四月、晋の荀偃(じゅんえん(中軍の将)、魯の叔孫豹しゅくそんひょう、斉の崔杼さいちょ、宋の華閲かえつ仲江ちゅうこう、衛の北宮括ほくきゅうかつ、鄭の子蟜しきょう公孫蠆こうそんたい)および曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人が会して秦に侵攻した。櫟の役の報復のためである。


 晋の悼公とうこうは国境で待機し、六卿が諸侯の軍を率いて進軍した。


 連合軍は秦軍を一度、破って涇水に至ったが、諸侯は涇水を渡ろうとしなかった。


 はっきり言って、この戦は晋のために戦ともいえ、諸侯の利益はあまりにも無い。また、秦があっさりと退いたことも疑わしかったこともあり、諸侯らとしては、これ以上の侵攻をしたくなかったのだ。


 晋の叔向しゅくきょうはこの事態を受けて、叔孫豹に会って言った。


「諸侯は秦が不恭なので討伐を始めたものの、涇水に来たら進軍を止めてしまった。討秦に何の意味があるのだろうか」


 叔孫豹は答えた。


「私に関して言えば、『匏有苦葉』です。他の事は知りません」


『匏有苦葉』は川を渡って来るはずの恋人を待つ女性の心を描いた詩である。この詩を歌うことで、水が深くても浅くても川を渡ると言っていることになる。


 叔向は退出してから舟虞(舟を掌る官)と司馬(兵を掌る官)を集めた。


「苦匏(瓢箪)は人に食べららずに、川を渡るときだけに使われる(瓢箪は浮き具になる)。魯の叔孫が『匏有苦葉』を挙げたのは、川を渡るつもりだからだ。汝等は舟を準備し(舟虞)、道を開け(司馬)。怠った者には法(刑)を用いよ」


 先ず、魯と莒が先に涇水を渡り始めた。


 すると鄭の司馬・子蟜が衛の北宮括に会って言った。


「人と共に行動しながら意志をはっきりさせないというのは、最も嫌われる行為です。そのようなことで、社稷をどうするつもりでしょうか」


 北宮括は納得し、二人で他の諸侯(斉・宋・曹・邾・滕・薛・杞・小邾)にも渡河を勧めた。


 こうして連合軍は次々に涇水を渡って陣を構えた。


 ところが秦軍は涇水の上流で毒を流したため、多くの兵が犠牲になった。


 しかしながら鄭軍には特に被害は出てなかった。


子産しさん殿、汝のおかげだ」


 子蟜は子産に涇水の水を飲まないよう、兵たちに通達するように進言していた。


 元気のある鄭軍が積極的に進軍すると、諸侯もそれに続き、棫林(秦地)に至った。


 だが、秦軍は連合軍の攻撃にうまく防御を固め、防いだ。


「秦は嫌な戦をするものだな」


 子蟜がそう言うと子産は言った。


「ええ、秦は士会の兵法を守っていると聞いています」


「士会か。私は年少であったため、会ったことはなかったが、周りの大人はいつも言っていたよ。あの者と戦はしたくない。戦するくらいなら、頭を下げるくらい造作でもないとな」


 からからと彼は笑った。


「それほどの方がいたのですね」


「ああ、今でも晋にいてくれたら、どうだったのだろうなあ」


 彼はそう呟いた。











 この苦戦に対し、諸侯からは撤退の声が上がった。そんな中、荀偃が全軍に命じた。


「鶏が鳴けば、進め。井戸を埋めて竃を平らにせよ(布陣のためです)。私の馬の首だけを見て進め」


 ところが下軍の将・欒黶らんえんは激怒した。


「晋の命でこのようなものがあったことはない。私の馬首は東(晋の方向。西は秦です)を欲している」


 そのまま帰ってしまった。これに下軍が従う。


 左史(従軍して記録する官)が下軍の佐・魏絳ぎこうに聞いた。


「荀偃殿を待たなくても良いのですか?」


 魏絳は難しい顔をしながらも答えた。


「荀偃殿は軍に従うように命じた。欒黶殿は我々の軍である。私はそれに従うだけだ。軍に従うことが荀偃殿の命に応じることにもなる」


 下軍の撤兵を知った荀偃は後悔しながら、


「私の命令に誤りであった。後悔しても及ばない。多くの兵馬を留めても、秦の虜になるだけであろう」


 彼は全軍に退却を命じた。


 晋人はこの戦いを「遷延の役」と呼ぶことになる。


「遷延」というのは先延ばしにして成果が上がらないという意味である。


 欒黶の弟・欒鍼らんけんが言った。


「今回の役は櫟の敗戦に報いるために始めたもの。しかしまた功を立てることができないのでは、晋の恥ではないか。我々兄弟二人とも戎路(軍中)にいながら、恥を受けるわけにはいかない」


 欒鍼は士匄しかいの子・士鞅しおうと仲が良く、彼を誘って秦軍に攻め入った。無謀な突撃であり、その結果、欒鍼は戦死した。


 しかし、士鞅は生還した。


 弟の死を嘆いた欒黶が士匄に詰め寄った。


「私の弟は行くつもりはなかったにも関わらず、汝の子が誘ったのだ。私の弟は死に、汝の子は帰って来た。汝の子が私の弟を殺したようなものではないか。彼を放逐しなければ、私が彼を殺すぞ」


 人は悲しいことがあった時、その悲しみを誰かに押し付けたいものである。されど、彼の言動はあまりにも自分勝手であり、そもそも、撤退を最初に行ったのは彼である。彼にも責任はあるはずなのだ。


 だが、そのような理屈が欒黶に通じないことを知っている士匄は息子を秦に奔らせた。














 士鞅が秦に来ると意外にも秦は暖かく彼を迎えた。秦は彼の曽祖父である士会しかいへの恩をこの時まで忘れていなかったということであろうか。


 秦の景公けいこうは士鞅に問うた。


「晋の大夫で誰が先に亡ぶと思うか?」


「欒氏でしょう。」


「横暴だからか?」


「その通りです。但し、欒黶の横暴は甚だしいものですが、滅亡から逃れることができましょう。滅ぶのは欒盈らんえい(欒黶の子)の代になってからでしょう」


 景公がその理由を聞くと、士鞅はこう言った。


欒書らんしょ)(欒黶の父)の徳は民にあり、周人が召公(召公・せき)を想ったように愛されておりました。召公への想いは甘棠にも及んだと言われております」


 召公は甘棠の木の下で訴訟を聞いたため、召公の死後、人々は召公を想って甘棠の木を伐らずに守ったと言われている。


「子に対してはならなおさら深い想いが及ぶはずで、欒黶の代はまだ安泰でございましょう。しかし欒黶が死ねば、その子・欒盈の善が人に及ぶ前に祖父の施徳が消滅するでしょう。人々の欒黶に対する怨みは明らかです。よって欒盈の身に禍が及ぶことになりましょう」


「おお、虎の子孫も虎よのう」


 景公は士鞅の見識を認め、晋に対して士鞅の帰国を受け入れるように求めた。士鞅は暫くして晋に帰ることになる。


 秦は士氏に対しては、とても優しい国であった。士会の恩徳はここまで届いていたと言うべきだろうか。





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