楚の共王
ある日、楚の共王が宮楼を建てることにした。
それが完成する前に鹿が楼を登ったことがあった。やがて共王は病にかかった(鹿が楼を登ったこととどういう関係があるのかは不明)。
共王が大夫に言った。
「私は不徳でありながら、幼少にして社稷の主となった。生まれて十年で先君(荘王)が死に、師保(太師・少師・太傅・少傅・太保・少保。太子の教育官)の教訓を受けず、多福を受けることになった(即位することになった)。しかしその不徳のために、軍を鄢で亡ぼし、社稷を辱め、大夫の憂いを招いてしまった。この罪はとても大きいものだ。もしも大夫の霊(保護)によって首領(頭)を保ったまま地に歿し(誅殺されることなく)、春秋(祭祀)・窀穸(葬儀)において禰廟(父廟)で先君に従うことができるのであれば(国君として死に、諡号をもらって宗廟に入ることができるようなら)、『霊』か『厲』の諡号をつけてほしい」
「霊」も「厲」も国を乱した主君につける悪諡である。それを自分の諡にして欲しいと頼むのは、前代未聞であった。そのため大夫たちは動揺し、応えることができなかった。
共王に応える大夫が居ないため、共王は五回命令を繰り返した。大夫らはやっと同意すると共王は安心したからように、
九月、共王は死んだ。
子囊が諡号を考えると、大夫たちが言った。
「国君の命令があります」
子囊は事も無げに、
「君命は共(恭。恭敬・謙虚な態度)によって発せられた。『共』を損なうわけにはいかない。赫赫たる楚に国君が臨み、蛮夷を鎮撫し、南海を遠征し、諸夏(中原。ここでは楚)に従わせた。しかも自分の過ちを知ることができた。これこそ『共』というものではないか。王の諡は『共』にしよう」
大夫らとしても共王に対し、悪諡をつけることは心苦しかったために、この意見に賛成した。
「共」は「恭」に通じ、諡号法では「過ちを犯しても、それを改めることができる」という意味を持つ。共王は恭王とも書かれる。
共王の子・招(または「昭」)が跡を継いた。これを楚の康王という。
さて、共王には寵子が複数居り、世子を決める際、大いに悩んでいた。
そんな時、屈建が言った。
「楚は必ず多乱になるであろう。例えば一兔が街を奔った時、万人がそれを追うものの、一人が兎を得たら万人は追うのを止める。獲物の分け方が決まっていない時は、一兔が奔ったら万人が慌てるが、既に定められたら、どれだけ貪欲な者でも動かなくなるものだからだ。今、楚には寵子が多いのに嫡位には主がいない。乱はここから生まれるはずであろう。世子とは国の基(基礎)であり、百姓の望である。国に基がなく百姓を失望させれば、国の根本を絶つことになるではないか。本が絶たれたら乱が生まれる。兔が街を奔るのと同じである」
これを聞いたことで、共王は康王を太子に立てたのである。
そんな中、呉が楚を侵した。
楚の養由基が率先して迎え討ち、子庚(公子・午。司馬)が軍を率いて続いた。
養由基が言った。
「呉は我が国の喪に乗じて侵攻している。我々が戦えないと思っているからであろう。そのため、我々を軽視し、警戒を怠っていると思われます。あなたは三カ所に兵を隠し、私を待ってくださいませ、私が彼等を誘い出しましょう」
子庚はこれに従った。
養由基は稀代の弓の名手である。彼は弓を持って、軍の前に躍り出るや、呉の大将である公子・党に向かって、矢を放ちその大将の身につけていた兜を射抜いて見せた。
公子・党は大いに怒り、何としても養由基を殺すよう全軍に命じた、
養由基はそれを見るや、踵を返し、庸浦(楚地。長江北岸)に誘い込んで、伏せていた兵によって、呉軍に大勝してみせた。呉の公子・党を捕えた。
「勝ったか……」
子囊は戦勝の報告を聞き、安堵した。
(呉め、まあ良い。今は喪を汚さぬようにせねば)
彼は咳き込みながら、子囊は部下に人を招くよう言った。
彼が招いたのは大宰・石毚である。彼は鄭の良霄(伯有)と共に楚に捕えられていた人物である。
彼が子囊にこう進言したのである。
「先王は一回の出征のために五年続けて卜いを行い、毎年続けて吉祥が出たらやっと出征されておりましたが、一年でも吉祥が出なければ。徳を治めてから改めて卜いを始めたものです。今の楚は確かに不競(競争力がない。強国と対等に戦うことができない)ですが、行人(使者。良霄等)に何の罪があるのでしょうか」
楚が弱くなったから自分たちを捕らえたが、弱くなったのは。軽率に戦争を繰り返し、徳を修めないことに原因があるのであり、自分たちを捕えていても意味は無いと言いたいのである。
「鄭の一卿(良霄)を留めても、鄭君に対する威逼(圧力)を除き、鄭の上下を和睦させ、楚を憎ませて晋との関係を強化させるだけのことです。これで貴国に利があると言えましょうか。彼を帰らせれば、使者の任務を全うできなかった彼は(帰国後に軽んじられるので)、鄭君を怨み、大夫を憎み、互いに牽制するようになります。その方が貴国にとって都合がいいのではありませんか?」
裏を返せば、自分たちを返せば、楚に通ずるであろうと言いたいのである。
これに対し、子囊は決断を保留にしていたが、彼を招いて言った。
「汝らを鄭に帰す」
「感謝します」
こうして、良霄と石毚を釈放して帰国させた。
「二人が帰ってきたどう思う?」
鄭の簡公は子蟜と子展らに問いかけた。
「何らかの裏があるかと」
「裏とは?」
「楚に通ずることであろうかと」
子展が答えた。
「私も子展殿の意見に賛成です」
子展に同意したのは、喪が明けた子産である。
「しかし、子囊殿らしくはない」
「確かに、あの方は慎重な方であり、やり方は全うさを好む。このような手を使うとは……」
二人は子囊らしからぬ。行動に疑問を抱くと子産が再び言った。
「何か、不安があるのではないでしょうか」
「不安とは?」
「己の寿命ではないでしょうか。あの方は病を押して、先君が亡くなられた後の国を憂い無理をしているのでしょう」
(楚の先君の遺言を先君のために変えた人だ。先君の築いたものを壊したくはないのであろう)
子産はそう思った。
「それで、我らが対象か。巻き込まれる方は溜まったものではないな」
「全くです。楚はやはり、傲慢な国です。いつだって自分たちのことしか考えていない。晋も同じですがね」
鄭は大国の横暴にこれからも付き合っていかねばならない。そう思うと嫌になるが、国政に携える者として、国を見捨てるわけにはいかない。
(今まで通りでやってしまっていては、国は摩滅するだけであろう。変えていかねばならない)
子産は鄭の政治改革についてこの頃から考え始めた。




