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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第八章 暗き時代

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謙譲

大変遅くなりました

 秦の庶長(爵名)・ほうと庶長・が軍を率いて晋に侵攻した。出兵の名目は鄭救援のためである。


 庶長・鮑が先に晋地に入った。


 晋の士魴しほうがこれに対抗した。


「秦軍の数は数千とのことです」


「少ないな。秦は鄭のためと称しておきながら、本気の侵攻ではないようだ」


 彼は秦軍にそれほど警戒をせず、櫟に陣を構えた。


「報告します。晋軍は特に目立った動きはございません」


「ふん、士会しかい殿の御子息が相手と聞いていたが……虎の子は虎とは限らないか」


 鮑は部下に指示を出した。


「武に指示を出せ」


「はっ」


 防備を怠っていることを庶長・武に伝え、輔氏で黄河を渡るよう指示を出した。


「良し、挟撃を持って、敵軍を破るぞ」


 庶長・鮑は武が黄河を渡ったと知らされ、共に晋軍を挟撃した。


 挟撃を受けた晋軍は警戒していなかっただけに混乱し、敗れた。敵を軽視したために招いた敗北であった。


 士魴はこの敗戦に大いに落ち込んだ。


 紀元前561年


 三月(または「二月」)、莒が魯の東境を攻撃し、台(または「邰」)を包囲した。


 魯の季孫宿きそんしゅくは台を援けるために莒の鄆(または「運」)に入り、鐘を奪って襄公じょうこうの盤(食器)にした。


 夏、晋の悼公とうこうが士魴を魯に送って聘問し、前年、鄭討伐に協力したことを謝した。
















 九月、呉の寿夢じゅぼうが病に倒れた。


「後継者は誰にしますか?」


 臣下たちが集まり、彼に問うた。


 寿夢には四人の子がいる。


 諸樊しょはん餘祭じょさい餘眛じょまい(または「夷眛」「夷末」)、季札きさつである(実際は季礼に弟がいる)。


 このうち季札が賢人と誉れ高く。後に天下第一の知識人と讃えられることになる人物であった。


 寿夢は後継者に選びたいと思った。彼は以前、魯に行った際、そこで礼というものに感動した人物である。故に息子たちに礼についてとても学べさせていた。そのため季礼に継いでもらいたかったのだ。


 しかし季札は辞退した。


「兄上が相応しいと私は考えます」


 後継者に相応しい彼が即位しないと言った以上、他の兄弟から選ぶしかなくなったが、寿夢は諦めきれなかった。


「諸樊よ。お前に跡を継がせることにした。しかし、お前の後は弟に継がせていき、必ず季礼に継がせるようにせよ」


「承知しました」


 こうして長子の諸樊が後を継ぐことになり、喪に服した。


 








 呉の寿夢が死んだと知って、魯の襄公は周廟(周文王廟)で哭礼を行った。


 当時の諸侯の喪では、異姓の諸侯が死んだ場合は城外で哭を行い、同姓なら宗廟(周廟)、同宗(開国の祖が同じ)なら祖廟、同族(高祖が同じ。高祖は曽祖父の父)なら禰廟(父廟)で哭すことになっていた。


 そのため魯は呉と同じ姫姓なので周廟で哭したのだ。


 魯の始祖にあたる周公・たんの子孫の国、例えば邢・凡・蒋・茅・胙・祭等の場合は、周公の廟(祖廟)で哭すことになる。




 冬、楚の子囊しどう(公子・てい)と秦の庶長(爵名)・無地むちが宋を攻撃して楊梁に駐軍した。


 前年、晋と鄭が講和したため、報復の戦争である。


 その頃、周の霊王れいおうが斉に王后を求めた。


 斉の霊公れいこう晏弱あんじゃくにどう回答したらいいか訊ねた。


 こうやって思うと、晏弱は武人でありながら礼節においても優れた人物であったようである。


「先王の礼辞があります。天子が諸侯に后を求めれば、諸侯はこう答えます。『夫婦(夫人)が産んだ子が何人おります。妾婦(妾)が産んだ子が何人おります』と、もしも娘がいなく、姉妹や姑姉妹(父の姉妹)がいる場合には、こう言います『先守(先君)・某公が残した女が何人おります』と」


 霊公は彼の言葉に頷き、婚姻に同意したため、霊王は大夫・陰里いんりを派遣して結言(口頭の約束)した。


「ここで周が斉に后を求めたか……」


 晏弱は杖をつきながら呟いた。


「無用な戦をもたらされなければ良いが……」


 彼は咳を何度かしてから帰宅した。











 魯の襄公が晋に朝見した。士魴の聘問に謝すためである。


 秦嬴しんえい(秦の景公けいこうの妹)は楚の共王きょうおうに嫁いでいた。いつの事かは不明である。


 この年、楚の司馬・子庚(しこう(楚の荘王そうおう)の子・)が秦を聘問し、秦嬴も同行して秦の実家を訪ねた。


 紀元前560年


 夏、邿国が乱れて三分した。「邿」は「詩」「寺」とも書き、妊姓の附庸国(公侯伯子男の五爵の下の国)である。


 その隙を突いて、魯が兵を出して邿を取った。この国は抜け目がないと言うかなんと言うか……


 


 晋の中軍の将・知罃ちおうと下軍の佐・士魴が死んだ。


 悼公は緜上で蒐(狩猟・軍事演習)を行って軍政を整え、中軍の佐・士匄しかいを将に昇格させようとした。


 しかし士匄は辞退してこう言った。


伯游はくゆう荀偃じゅんえんの字。上軍の将)は私より年上でございます。今までは私が知伯(知罃)をよく理解していたため、中軍の佐を勤めて参りました。決して私が賢能だったからではござません。私を伯游に従わせてください」


 悼公は彼の言葉を採用し、荀偃を中軍の将に任命した。


 悼公は荀偃の代わりに韓起かんきを上軍の将に任命しようとしたが、韓起は趙武ちょうぶに譲った。


 そこで悼公は欒黶らんえんを選ぼうとしたが、欒黶は辞退した。


「私は韓起に及ばず、その韓起が趙武を推したのです。主公はそれに従うべきと考えます」


 こうして新軍の将・趙武が上軍の将に大抜擢された。


 士魴の代わりには新軍の佐・魏絳ぎこうが選ばれて下軍の佐になった。


 中軍の将は荀偃、佐は士匄(変わらず)、上軍の将は趙武、佐は韓起(変わらず)、下軍の将は欒黶(変わらず)、佐は魏絳となった。


 新軍に関しては、将佐がいなくなり、相応しい人選もなかった。そのため什吏(十吏。五吏の補佐官。五吏は軍尉・司馬・司空・輿尉・候奄)に新軍の卒(歩兵)・乗(車兵)と官属を統率させて、下軍に従わせることにした。


 この士匄の謙譲によって下の者も譲り合い、晋の将佐は団結できるようになったと讃えられた。


 彼らの美徳は民衆にも拡まり、晋の民は和して、諸侯も晋に帰心するようになったと書かれている。




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