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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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偪陽攻略戦

 紀元前563年


 春、晋の悼公とうこう、魯の襄公じょうこう、宋の平公へいこう、衛の献公けんこう、曹の成公せいこうと莒君、邾君、滕君、薛君、杞君、小邾君および斉の世子・こうが呉の寿夢じゅぼうと会すことになった。


 三月、斉の高厚こうこうが世子・光の相(補佐役)となり、先行して鍾離で諸侯と会った。しかしながらその時の態度が不敬だったため、晋の士弱しじゃくがこう言った。


「高厚が太子の相として諸侯に会うのは、本来、社稷の衛(守り)となるためであるはずだ。しかしながらその態度が不敬では、社稷を棄てることになる。禍から逃れることはできないであろう」


(斉君は人を見る目がない)


 彼はそう感じた。


 四月、中原諸侯と寿夢が柤(楚地)で会した。わざわざ、楚の近くで会盟するとは、豪胆である。


 晋の荀偃じゅんえん士匄しかいが偪陽を占領して宋の向戌しょうじゅつ(二人と彼は仲が良い)の封邑にすることを請うた。


 偪陽は妘姓の小国である。


 これに知罃は拒否してこう言った。


「偪陽は小城だが堅固である。勝っても武とは言えず、負ければ天下の笑い者になるだろう」


 しかし荀偃と士匄が頑なに攻撃を要求したため、知罃はやむなく同意した。彼は押しに弱いところがある。


 晋が偪陽を包囲した。だが、なかなか攻略できずにいた。


 この戦いでは諸侯も参加するよう命じられていた。はた迷惑この上ないが、大国に逆らえば、面倒なことになることはわかりきっているため、諸侯は兵を出した。


 魯の孟孫氏の家臣に秦堇父しんきんほという人物がいた、彼はなんと人力で重車(荷車)を牽いて戦場に到着した。剛力の人である。


 諸侯の士が場門を攻撃すると、偪陽の守備兵がわざと城門を開けた。


 諸侯の士はなだれ込むように開いた門に攻め入るが、偪陽の守備兵は諸侯の兵を城内に閉じ込めるため、懸門を下ろし始めた。


 既に城内に入っていた士卒は混乱に陥るものの、魯の郰人・こつ(郰は魯の邑。紇は郰邑大夫・叔梁紇しゅくりょうこつ)が両腕を挙げて閉じようとする門を支えた。それにより、城内に進入した士卒は脱出することができた。


 因みに彼は孔子の父にあたる人物である。


 魯の狄虒彌てきしび(または「狄斯彌」)が大車の車輪を立てて、皮製の甲を被せて櫓(大盾)とし、左手で持ち、右手には戟を持ち、一隊を指揮していた。


 因みに「一隊」の人数は、十五人、百人、二百人等の諸説がある。


 この様子を見た魯の仲孫蔑ちゅうそんべつが称えた。


「『詩(邶風・簡兮)』に見られる『虎のように力がある者』という者のようであるな」


 戦いが続く中、城を守る将が城壁の上から布を垂らした。


 それを見つけた秦堇父が布をつかんで城壁を登り始める。ところが堞(城壁の低くなっている場所)に至ったところで布が切られたため、秦堇父は城下に転落した。


 守将が再び布を垂らすと、秦堇父は立ち上がってまた城壁を登った。しかしやはり城下に落とされた。その後、再び布が垂らされた。明らか、悪意がある行動であるが、秦堇父はまた掴み、登った。これが三回繰り返された時、守将はその勇気に敬意を表した。


 城を攻略することができない諸侯の士兵は一時退いた。秦堇父は切られた布を帯びて三日間、陣中で巡示した。勇を誇示して士気を挙げるためである。


 堅城と言われた偪陽が攻略できないまま諸侯の軍が偪陽を攻撃して久しくなった。


 荀偃と士匄が知罃に言った。


「もうすぐ雨が降ります。兵を還すのが困難になるため、退却するべきではないでしょうか」


 普段は温厚な知罃は流石に二人の言動に怒って机を投げつけた。


 因みに机は「几」とも書き、肘掛のようなものである。但し、楊伯峻ようはくしゅんの『春秋左伝注』によれば、「几」は大きくて投げにくいため、弩を撃つための「機」を投げた可能性もあるのではないかとされている。


 知罃が投げた机は荀偃と士匄の間を飛んだ。


「汝等は二事(偪陽を攻撃することと、向戌に与えること)を決定してから私に進言した。私は軍令の混乱を恐れたが故に、汝等に反対しなかったのだ。それによって汝等は国君を煩わせ、諸侯の軍を起こさせ、老夫(知罃)をここまで引っ張って来た。それにも関わらず、武を堅持することなく、私に退却の責任を押し付けようとするのは、後々になって『あの時、退却していなければ攻略できた』とでも言うつもりであろうか。老弱の私にまた罪を負わせるのか。今日から七日間で攻略できなければ、汝等の首を取って謝罪するであろう」


 そもそもこの戦は二人が言い出したがために起こった戦である。それにも関わらず、退却しようなど、言えたものである。


 しかも知罃は邲の戦いで楚の捕虜になっており、今回、兵を動かしたにも関わらず、成果がなければ、罪を重ねることになる。


 二人は責任感があまりにも欠けている。


 五月、これを恐れた荀偃と士匄が卒(歩兵)を率いて偪陽城を攻撃した。二人とも陣頭に立ち、自ら矢石を浴びながら必死に戦った。


 人は追い込まれた時になって本気になるものである。


 二人の奮闘もあり。ついに偪陽が滅んだ。


 晋は当初の予定通り、偪陽を宋の向戌に与えようとしたが、彼は辞退した。


「貴君が宋を鎮撫し、偪陽によって我が君の領土を広げるというのであれば、我々群臣も安心できましょう。これ以上大きな賜はありません。しかしもしも臣下に与えるというのであれば、臣下が諸侯の軍を起こして自分の封邑を得たことになります。これ以上大きな罪はないため、死を請わせていただきます」


 こうまで言われては、彼に譲ることができない。そのため晋は偪陽を宋の平公に与えた。


 激戦の割には、何のための戦だったのだろうか。


 平公が楚丘で悼公をもてなし、『桑林』の楽舞を披露しようとした。商王朝を開いた湯王とうおうを称える内容である。


 知罃が辞退すると、荀偃と士匄が言った。


「諸侯の中では宋と魯において儀礼を観ることができます。魯には『禘楽』があり、賓客を招待したり大祭を開く時に用います。宋が『桑林』で国君をもてなすのに、問題があるでしょうか?」


 魯では賓客が『禘楽』を観ることができるのであるのなら晋君が宋で『桑林』を観ても問題ないはずですではないかと彼らは言いたいのである。


 それでも彼は見ることを良しとはしなかった。


 されど宋は『桑林』を奏で、舞いを始めた。楽師が旌夏(旗の一種)を掲げ、楽人を従えて入場した。これに対し、悼公は特殊な形をした旌夏を観ると恐れて房(正室の東西にある部屋)に入ってしまった。そのため、旌夏をはずして『桑林』の楽舞を続けた。


 その後、悼公一行が帰国し、著雍(晋地)に入った時、悼公が病にかかった。そこで卜いをすると「桑林の神」が見えた。


 荀偃と士匄は宋に戻って祈祷を請おうとしたが、知罃がこう言った。


「元々、我々は『桑林』の儀礼を断ったにも拘わらず、彼等が敢えてそれを行ったのだ。もしも鬼神がいるのなら、彼等に咎を与えるはずであろう」


 宋が勝手にやったことをこちらで何かするのは割に合わないではないか。


 暫くして悼公の病が恢復したため、偪陽君を連れて晋都に還り、「夷俘(夷の捕虜)」と名付けて武宮(晋の太祖廟。武公廟)に献上した。


 偪陽は妘姓の国であるため、悼公は使者を派遣して周の内史に妘姓の族嗣を選ばせ、霍人(晋の邑名)で偪陽の祭祀を継続させた。


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