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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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盟約

 十一月、鄭が晋に帰順したため、諸侯は戲で盟を結んだ。


 会盟には鄭の六卿である公子・子駟しし)、公子・はつ子国しこく)、公子・子孔しこう)、公孫輒こうそんちょう子耳しじ)、公孫蠆こうそんたい子蟜しきょう)、公孫・舍之しゃし子展してん)および大夫、門子(卿の嫡子)が鄭の簡公かんこうに従いました。


 晋の士弱しじゃくが載書(盟書)を作って宣言した。


「今日の盟を誓ってから、もし鄭が晋の命を聴かず、または異志(二心)を抱くことがあれば、この盟書に書かれた咎を受けるだろう」


 すると公子・騑が小走りで前に進み、こう宣言した。


「天が鄭に禍を降し、我が国を二大国に挟ませた。大国は徳音をもたらさず、乱(武力)によって盟約を強要している。故に鬼神は祭祀を受けれず、民も土地の利(産物)を享受することができず、夫婦は辛苦のため痩せ衰え、訴える場所を得ることができない。今日の盟を誓ってからは、鄭は礼と彊(武力)によって我が民を守る者に従うだろう。もしも異志(他の考え)を持てば、盟書に書かれた咎を受けるだろう」


 荀偃じゅんえんが慌てて、載書を改めろと要求したが、公孫・舍之が拒否して言った。


「大神に要言(盟書の内容)を宣言してしまいましたので、改めることはできません。もしも改めることができるのであれば、大国に叛すこともできるようになりましょう」


 鄭は晋の宣言を利用したことになると言えよう。


 知罃が荀偃(中行偃)に言った。


「我々には確かに徳がありません。それなのに人に盟約を強要するようでは、礼とは言えないでしょう。非礼では盟を主持することもできません。とりあえず盟を結び、兵を退いて徳を修め、軍を休めてからまた来るべきです。最後には鄭を得ることができます。今日しか機会がないわけではないのですから。我々に徳がなければ、鄭だけでなく、民が我々を棄てることになります。逆に、民を休めて和睦させれば、遠人も帰順するため、何も鄭だけにこだわる必要もなくなりましょう」


 晋は鄭と盟を結んで帰還した。


 しかし暫くして、鄭の盟約に不満な晋は再び諸侯と共に鄭を討伐した。


 十二月、再び、鄭の三門を攻めた。東・西・北の三門です。南門はわざと開けて楚軍の到着を待った。されど楚が来ることはなかった。


 その後、晋と諸侯の連合軍は陰阪で淯水を渡り、一時、陰口に駐軍してから還った。


 鄭の子孔しこうが進言した。


「晋軍を撃つべきだ。その軍は長期出征して疲労しており、帰志(帰国の願い)を持っている。今、攻撃すれば必ずや大勝できるだろう」


 しかし子展してんは同意しなかった。


 鄭が信頼をおけるようなことをしていないからこの出兵を招いたのだ。それにも関わらず、後ろを襲うような真似をするべきではないであろう。

 

 魯の襄公じょうこうが晋の悼公とうこうを送った。


 悼公が黄河で宴を開き、襄公が何歳になったかを聞いた。


 季孫宿きそんしゅくが相(国君の補佐)として答えた。


「沙隨の会の年に我が君はお産まれになりました」


「それならば十二年であるな。十二年を一終という。一星終(歳星が運行する周期)である。国君は十五で子を産むことと、冠礼(成人になる儀式)を行ってから子を産むことが礼とされている(国君の冠礼の歳は十二歳といわれているが、異説もある)。貴君は冠礼を行うべきだ。大夫はなぜ冠具を用意しないのか」


 季孫宿が答えた。


「国君の冠礼は祼享の礼(香料を入れて煮た酒を地に注ぐ儀式のこと)で始まり、金石の楽(鐘磬の音楽のこと)を節とし、先君の祧(宗廟)で行う必要があります。今、我が君は国外にいるため、準備ができておりません。兄弟の国に入った際、必要な物を借りようと思います」


 悼公は同意した。


 その後、襄公は帰国の途中で衛に入った際、鐘磬を借りて衛の成公せいこうの廟で冠礼を行った。衛も魯も始祖は文王の子・武王の弟なので、兄弟国になる


 一方、鄭は晋の攻撃を受けたものの、その前に結んだ和約はまだ解消されていない。それにより、今度は楚の共王きょうおうは鄭を攻撃した。


 子駟は楚との講和を求めた。


 これに子孔と子蟜が反対した。


「大国(晋)と盟したにも関わらず、口の血(会盟で口に塗る犠牲の血)も乾かないうちに背くのは、如何なものか」


 子駟と子展が反論した。


「我々は『彊(強国)に従う』と誓ったのだ。今、楚軍が来たにも関わらず、晋が我々を援けないということは、楚が強いということになる。盟誓の言に背いてはいない」


 あの盟約で鄭は晋を盟主とした。されど晋は盟主としての責務を果たそうとしないではないか。


「そもそも、強制による盟約には実体がなく、神が降臨することもない。神が降りるのは信がある会盟のみである。信は言の瑞(保証となるもの)であり、善の主である。そのため神が降臨するのだ。明神は強制による盟がけがらわしいものであることを知っている。これに背いても問題はない」


 鄭は楚と講和した。楚の公子・罷戎らじゅうが鄭城内の中分(里名)に入り、盟を結んだ。


 しかしこの時、楚の荘王夫人(共王の母)が死んだため、共王は鄭を完全に鎮撫する前に兵を還した。


 その頃、晋の悼公は帰国し、民を休息させる方法を図った。魏絳ぎこうが施舍(民への施し)を進言し、悼公以下、大臣百官が蓄えていた財物を集めて民に与えた。


 この悼公の政治のおかげで、国内では財貨の流通が滞ることなく、生産が活発化し、困窮した民がいなくなり、川沢山林が開放され、民の利となった。


 但し、教化が行き届いているため、富を貪ろうとする者はおらず、質素倹約に勉め、祈祷においては犠牲を使わず、皮幣(狐貉の皮や繒帛)を使うことにし、賓客をもてなす際も特牲(一種類の家畜)だけが出され、新しい器物は作らず、車服も無駄をなくした。


 一年後、国に節(礼節・法度)が生まれ、三回の出兵(翌年の牛首、翌々年の向地と鄭東門)において楚は晋に対抗することができなかった。






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