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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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魯の穆姜

 夏、魯の季孫宿きそんしゅくが晋に行った。前年の士匄しかいの聘問に対する答礼である。


 魯の宣公(せんこう)夫人・穆姜(ぼくきょう)(成公(せいこう)の母。襄公(じょうこう)の祖母)は叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ)と姦通して季孫氏や孟孫氏を排斥しようとしたが、失敗した。


 叔孫僑如が出奔した後は彼女は東宮に入れられた。


 東宮に入ったばかりの時、筮で占うと「艮之八」という卦が出た。これを見て、史(太史)が言った。


「これは『艮』が『隨』に変わるという卦です。『隨』は『出る』という意味です(「随」は「人に従って行く」という意味があり、「出る」に通じる)。あなた様はすぐに東宮から出るべきです」


 しかし穆姜は首を振って言った。


「その必要はありません。『周易』によれば、『隨』は『元・亨・利・貞』であり『咎(災難)がない』と解釈されています。『元』は体の長(最も高い場所。頭)のことを指し、『亨(享)』は嘉の会(慶祝の宴。享宴)です。『利』は義の和のことを言います。『貞』は事の幹です。仁を体現すれば、人を動かすことができ、嘉徳(美徳)をもてば礼にかなうことができ、物を利すれば義を和すことができ、貞を固めれば事を成すことができるのです。このようであれば、侮られることがなく、『隨』の卦が出た時、咎を受けなくてすみます。されど私は婦人でありながら乱に加わりました。元々下位(国君の下。または女の身)にいながら、不仁を行った者は『元(体の長。転じて国の長)』とはいえません。国家を安静にすることができなかったので、『亨』とは言えません。乱を起こして自身を害したのですから、『利』とは言えません。本位(成公の母であり、未亡人である立場)を棄てて姣(美麗)を求めたましたので、『貞』とは言えません。四徳がある者は『隨』の卦が出た時、咎から免れることができますが、私には一つの徳もないので、『隨』の卦は当てはまりません。私は自ら悪を選んだのです。必ずや咎を受けることでしょう。私はここで死ぬはずです。出て行く必要はありません」


 そして、五月、穆姜が東宮で死んだ。


 六月、鄭の簡公(かんこう)が楚に朝見した。


 秦の景公(けいこう)士雃(しけん)(士会(しかい)の子孫、または一族か?)を楚に送って晋への出兵を請うた。


 楚の共王(きょうおう)が同意すると、子囊(しどう)が反対した。


「いけません。今の我々に晋と争う力はございません。晋君は能力に応じ、人材を用いておりますので、賢人が抜擢から漏れることがありません。その官員は政令を妄りに変えることなく、卿は善人に譲り、大夫は職責を守り、士は教化を競い、庶人は農事に力を尽くし、商工や皁隸(賤役)も職業を変えることがございません。このように社会が安定している中、韓厥(かんけつ)が告老(引退)するも知罃(ちおう)がこの政事を受け継ぎ、士匄は中行偃(ちゅうこうえん)よりも若いにも関わらず、その上に位置して中軍の佐を勤め、韓起(かんき)欒黶(らんえん)よりも若いにも関わらず、欒黶、士魴(しほう)の上に位置して上軍の佐を勤めています(欒黶と士魴は韓起に上軍の佐を譲った)。魏絳(ぎこう)は功績が多いのに、趙武(ちょうぶ)を賢人と認めてその佐になっております。君明(国君が賢明)・臣忠(臣下が忠直)で、しかも上が譲って下が尽力している今の晋は、敵としてはならず、逆に彼等に仕えてこそ安全を得ることができましょう。王はよくお考えになるべきです」


 しかし共王は、


「私は既に秦に同意している。たとえ晋に及ばないとしても、出師する必要がある」


 と答えた。


 秋、楚の共王が自ら武城に駐軍して秦の後援となり、秦が晋を攻撃した。


 この年、ちょうど飢饉が晋を襲っていたため、晋は反撃できなかった。


「いずれ、やり返してやる」


 晋はそう考えながら、侵攻に耐えた。















 十月、秦からの侵攻が終わってから、晋を中心とする諸侯は鄭に侵攻した。鄭が六月に楚を朝見したためである。


 魯の季孫宿、斉の崔杼(さいちょ)、宋の皇鄖(こううん)が晋の知罃と士匄(中軍)に従って鄟門(東門)を攻撃し、衛の北宮括(ほくきゅうかつ)と曹人、邾人が晋の荀偃(じゅんえん)と韓起(上軍)に従って師之梁(西門)を攻撃し、滕人と薛人が晋の欒黶と士魴(下軍)に従って北門を攻撃した。


 また、杞人と郳人が晋の趙武と魏絳(新軍)に従って道の両側に植えられた栗の木を伐採した。道を開くためと物資・武器を満たすためである。


「これが戦……」


 子産(しさん)はこの戦が初陣であった。


「これが戦なのですね父上」


 彼は父である子国(しこく)にそう言うものの、子国は何も答えず、戦場を眺めていた。


「良し、ここは大丈夫だな。(きょう)、ここは任せるぞ」


「はい」


 子国は配下と共に、持ち場を離れ、他の門へ援けに向かった。


(あれが戦場における父上なのか……)


 いつもとは違う父を見ながら、戦場は人を変える場所であると考えた。


(ここが父が生きた場所なのだな)


 子産は戦場の空気を感じながら、そう思った。


 晋軍は氾水に引き、駐軍して諸侯に命じた。


「武器を直し、食料を蓄え、老幼を帰らせ、疾病のある者は虎牢に住ませ、過失を犯した者を赦し、鄭を包囲攻撃せよ」


 鄭はこれ以上の戦闘を恐れて講和を求めた。


 中行偃が言った。


「鄭の包囲を続け、楚が援けに来るのを待って楚と決戦しなければ(楚を破らなければ)、鄭が本当に服従することはないでしょう。講和するべきではありません」


 知罃が言った。


「我々が鄭の盟(講和)に同意して軍を還せば、楚が鄭を攻撃するだろう。それによって楚を疲弊させることができる。その時、我々が四軍を三分し、諸侯の精鋭と共に楚を迎え討てば、我々は疲労することはなく、既に疲弊した楚を維持できなくさせることができるだろう。盟に同意した方が楚の援軍を待って戦うよりも有利だ。白骨を晒して一時の喜びを得るような戦いをしてはならない。そのような戦いは大労(困難)を後に残すだけである。君子は心を労し(智慧を使い)、小人は力を労すのが、先王の教えである」


 鄭のことは心の底から信頼はできない。それでも利用価値はあるだろうというのが彼の考えである。元々彼としても鄭は許せない。それでも国のことを私情など二の次である。


 諸侯も戦いを望んでいなかったため、晋は講和を許した。





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