魯の穆姜
夏、魯の季孫宿が晋に行った。前年の士匄の聘問に対する答礼である。
魯の宣公夫人・穆姜(成公の母。襄公の祖母)は叔孫僑如と姦通して季孫氏や孟孫氏を排斥しようとしたが、失敗した。
叔孫僑如が出奔した後は彼女は東宮に入れられた。
東宮に入ったばかりの時、筮で占うと「艮之八」という卦が出た。これを見て、史(太史)が言った。
「これは『艮』が『隨』に変わるという卦です。『隨』は『出る』という意味です(「随」は「人に従って行く」という意味があり、「出る」に通じる)。あなた様はすぐに東宮から出るべきです」
しかし穆姜は首を振って言った。
「その必要はありません。『周易』によれば、『隨』は『元・亨・利・貞』であり『咎(災難)がない』と解釈されています。『元』は体の長(最も高い場所。頭)のことを指し、『亨(享)』は嘉の会(慶祝の宴。享宴)です。『利』は義の和のことを言います。『貞』は事の幹です。仁を体現すれば、人を動かすことができ、嘉徳(美徳)をもてば礼にかなうことができ、物を利すれば義を和すことができ、貞を固めれば事を成すことができるのです。このようであれば、侮られることがなく、『隨』の卦が出た時、咎を受けなくてすみます。されど私は婦人でありながら乱に加わりました。元々下位(国君の下。または女の身)にいながら、不仁を行った者は『元(体の長。転じて国の長)』とはいえません。国家を安静にすることができなかったので、『亨』とは言えません。乱を起こして自身を害したのですから、『利』とは言えません。本位(成公の母であり、未亡人である立場)を棄てて姣(美麗)を求めたましたので、『貞』とは言えません。四徳がある者は『隨』の卦が出た時、咎から免れることができますが、私には一つの徳もないので、『隨』の卦は当てはまりません。私は自ら悪を選んだのです。必ずや咎を受けることでしょう。私はここで死ぬはずです。出て行く必要はありません」
そして、五月、穆姜が東宮で死んだ。
六月、鄭の簡公が楚に朝見した。
秦の景公が士雃(士会の子孫、または一族か?)を楚に送って晋への出兵を請うた。
楚の共王が同意すると、子囊が反対した。
「いけません。今の我々に晋と争う力はございません。晋君は能力に応じ、人材を用いておりますので、賢人が抜擢から漏れることがありません。その官員は政令を妄りに変えることなく、卿は善人に譲り、大夫は職責を守り、士は教化を競い、庶人は農事に力を尽くし、商工や皁隸(賤役)も職業を変えることがございません。このように社会が安定している中、韓厥が告老(引退)するも知罃がこの政事を受け継ぎ、士匄は中行偃よりも若いにも関わらず、その上に位置して中軍の佐を勤め、韓起は欒黶よりも若いにも関わらず、欒黶、士魴の上に位置して上軍の佐を勤めています(欒黶と士魴は韓起に上軍の佐を譲った)。魏絳は功績が多いのに、趙武を賢人と認めてその佐になっております。君明(国君が賢明)・臣忠(臣下が忠直)で、しかも上が譲って下が尽力している今の晋は、敵としてはならず、逆に彼等に仕えてこそ安全を得ることができましょう。王はよくお考えになるべきです」
しかし共王は、
「私は既に秦に同意している。たとえ晋に及ばないとしても、出師する必要がある」
と答えた。
秋、楚の共王が自ら武城に駐軍して秦の後援となり、秦が晋を攻撃した。
この年、ちょうど飢饉が晋を襲っていたため、晋は反撃できなかった。
「いずれ、やり返してやる」
晋はそう考えながら、侵攻に耐えた。
十月、秦からの侵攻が終わってから、晋を中心とする諸侯は鄭に侵攻した。鄭が六月に楚を朝見したためである。
魯の季孫宿、斉の崔杼、宋の皇鄖が晋の知罃と士匄(中軍)に従って鄟門(東門)を攻撃し、衛の北宮括と曹人、邾人が晋の荀偃と韓起(上軍)に従って師之梁(西門)を攻撃し、滕人と薛人が晋の欒黶と士魴(下軍)に従って北門を攻撃した。
また、杞人と郳人が晋の趙武と魏絳(新軍)に従って道の両側に植えられた栗の木を伐採した。道を開くためと物資・武器を満たすためである。
「これが戦……」
子産はこの戦が初陣であった。
「これが戦なのですね父上」
彼は父である子国にそう言うものの、子国は何も答えず、戦場を眺めていた。
「良し、ここは大丈夫だな。僑、ここは任せるぞ」
「はい」
子国は配下と共に、持ち場を離れ、他の門へ援けに向かった。
(あれが戦場における父上なのか……)
いつもとは違う父を見ながら、戦場は人を変える場所であると考えた。
(ここが父が生きた場所なのだな)
子産は戦場の空気を感じながら、そう思った。
晋軍は氾水に引き、駐軍して諸侯に命じた。
「武器を直し、食料を蓄え、老幼を帰らせ、疾病のある者は虎牢に住ませ、過失を犯した者を赦し、鄭を包囲攻撃せよ」
鄭はこれ以上の戦闘を恐れて講和を求めた。
中行偃が言った。
「鄭の包囲を続け、楚が援けに来るのを待って楚と決戦しなければ(楚を破らなければ)、鄭が本当に服従することはないでしょう。講和するべきではありません」
知罃が言った。
「我々が鄭の盟(講和)に同意して軍を還せば、楚が鄭を攻撃するだろう。それによって楚を疲弊させることができる。その時、我々が四軍を三分し、諸侯の精鋭と共に楚を迎え討てば、我々は疲労することはなく、既に疲弊した楚を維持できなくさせることができるだろう。盟に同意した方が楚の援軍を待って戦うよりも有利だ。白骨を晒して一時の喜びを得るような戦いをしてはならない。そのような戦いは大労(困難)を後に残すだけである。君子は心を労し(智慧を使い)、小人は力を労すのが、先王の教えである」
鄭のことは心の底から信頼はできない。それでも利用価値はあるだろうというのが彼の考えである。元々彼としても鄭は許せない。それでも国のことを私情など二の次である。
諸侯も戦いを望んでいなかったため、晋は講和を許した。




