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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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どっちつかず

前話を間違って、変な時間に投稿してしまいました。前話を読まれていない方はその前話も読んでいただけると嬉しいです。



 紀元前565年


 正月、魯の襄公じょうこうが鄬(前年)から晋に行き、朝聘の数(朝見・聘問時に献上する貢物の数)について、晋の悼公とうこうの指示を聞いた。


 鄭の簡公かんこうは即位してから子駟ししによって、若い人物たちを教育係として付けられていた。


 付けられた者たちは教育係と言うべき人物たちなのだが、簡公の学びを助けつつも、ちょっとしたことでも簡公のしたことを褒めると言ったことをしていた。


 彼の周りには甘い言葉が漂っていたと言って良いだろう。その周りの中で異質な者が一人いた。


 子産しさんである。


 彼の纏っている雰囲気はどうにもそう言った者たちと異質過ぎて、簡公は触れることを恐れた。


 簡公は五歳の幼子である(今年で六歳)。そんな彼からすると子産は怖い大人であった。


(どうにもこの者は……子駟より怖い)


 簡公は子産のことを思いながら国君としての学びを続けていた。


 鄭の簡公の即位に関して、不満を持っていた群公子は多かった。僖公きこうを殺した子駟が政治を握っているからである。そのため彼らは子駟を謀殺しようとしていた。


 しかし子駟が先手を打った。


 四月、子駟が群公子の罪を探して、子狐しこ子熙しき子侯しこう子丁していを殺した。孫撃そんげき孫悪そんあく(一説では、二人は子狐の子)は衛に奔った。


「ここまで引退なされば、これ以上の汚名は着なくとも良いものを……」


 晋の欒書らんしょに倣って引退すれば、良いのにと子産は思いながら、これを見ていた。


 この数日後、鄭の子国しこく子耳しじ子良しりょうの子)が蔡を侵し、蔡の司馬を勤める公子・しょう(または「湿」)を捕えた。


 鄭の人々はこの戦勝を喜んだが、子産だけはこう言った。


「小国が文徳もないにも関わらず、武功を立てた。これ以上の禍はないだろう。楚が討伐してきたら、彼等に服従しなければならないからだ。しかし楚に従えば、晋が必ず攻めて来るだろう。晋楚が同時に鄭を討伐するようになれば、今後四、五年は安寧を得ることができない」


 それを聞いた父の子国が怒って子産に言った。


「汝が何を知っているというのだ。国には大命(君命)があり、正卿がいる。童子がそのようなことを言っていれば、戮(死)を招くことになるだろう」


 子産のこの非難は子駟に向けられていると考えた子国は彼を叱った。以前は子駟と仲が良かった彼だが、今は子駟とは冷え切っているようである。


 五月、晋の悼公、鄭の簡公と魯の季孫宿きそんしゅく、斉の高厚こうこう、宋の向戌しょうじゅつ、衛の甯殖ねいしょく、邾の大夫が邢丘で会した。晋が諸侯の大夫に朝聘の数を命じた。


 鄭の簡公は蔡から奪った戦利品を献上するため、自ら会に参加した。


「直接出席しなくとも良いのか?」


「はい」


 だが、実際に出席したのは、大夫である。簡公が五、六歳であるためである。


「国君の職務を国君がしなくとも良いのか?」


「まだ、主公は若いので、大丈夫なのです」


「そうか……わかった」


 簡公は目を伏せながら、頷いた。大夫が彼の前から離れると彼は呟いた。


「国君の職務とは何であろうか。国君とは何であろうか」


 彼は服を整えて、会盟が終わるのを待った。


 莒が鄫を滅ぼしてから、魯が旧鄫国の地を侵した。


 そこで、莒が魯の東境を攻撃し、旧鄫国の地で莒と魯の国境を定めた。


 冬、楚の公子・てい子囊しどう)は鄭の蔡侵攻を知り、鄭を攻めた。


 鄭はこれを受けて、重臣たちが集まって、協議した。


 子駟、子国、子耳は楚に帰順しようとし、これに子孔しこう穆公ぼくこうの子)、子蟜しきょう公孫蠆こうそんたい子游しゆうの子)、子展してん公孫舎之こうそんしゃし。舍之が名。子罕しかんの子)は晋の救援を待つように主張した。


 意見が二分する中、子駟が言った。


「『周詩(逸詩)』にはこうある『黄河の水が清らかになるまで、いくらの人生が必要になるだろうか。占卜が多ければ、自ら網を造ることになるだろう』」


 これは人生は短いのだから、占卜ばかりやって異なる意見を求めていたら、意見が増えるだけでまとまらなくなり、自ら足をすくうことになるだろうという意味である。


「多族(朝廷の卿大夫)と謀っていれば、見解が増えて混乱し、民が多くの事に従えなくなる。これでは事を成すことができないではないか。今は民の危急の時である。楚に従い、民の難を和らげようではないか。晋軍が到着した際には、それに従えば良く。恭敬な態度で幣帛を献上し、来る者を待つのが小国の道であろう。犧牲と玉帛を用意し、二境(鄭と晋、鄭と楚の国境)で到着を待てば、強者が民を守ってくれるのだ。敵が我が国の害にならず民が困窮することもないのだから、それで良いではないか」


 子駟の言にある犠牲とは、強国と講和する時の会盟で使うもので、玉帛は講和時の礼物である。


 子駟は先に楚が来て鄭と講和すれば、楚が後から来た晋を防いでくれる。先に晋が来れば逆になるということで、国境で晋と楚に備え、鄭を攻めてきた国と講和を結んでとりあえず難をしのげば良いというどっちつかずの外交を主張したのだ。


 これに子展が反対した。


「小国が大国に仕えるには、信が必要です。小国に信がなければ、兵乱が訪れて亡国は時間の問題となりましょう。今、我が国は五会(雞沢の会、戚の会と城棣の会、鄬の会、邢丘の会のこと)の信に背こうとしていますが、楚が我が国を援けたとして、信を棄てて何の意味があるでしょうか。楚が我が国に親しくしても、良い結果はありません。彼等は我が国を自分の領土にしたいだけだからです」


 ただでさえ、五回の会盟に背こうとしている国に対し、信頼など何ら期待もしておらず、領土が欲しいだけの国である楚に従うと思うのか。それが彼からすれば、理解できない。


「楚に従ってはならず、晋を待つべきです。今の晋君は聡明で、四軍に欠陥がなく、八卿も和睦しています」


 今の晋の八卿は知罃ちおう士匄しかい荀偃じゅんえん韓起かんき欒黶らんえん士魴しほう趙武ちょうぶ魏絳ぎこうである。


「そんな晋が鄭を見捨てることはありません。楚軍は我が国から遠く、糧食が尽きようとしているため、すぐに兵を退くはずです。恐れることはございません。『強き者に頼らんとするのであれば、信を守った方が良い』といいます。守りを固めて楚を疲弊させ、信を守って晋の援軍を待つべきです」


 子駟が言った。


「『詩(小雅・小旻)』にはこうある『謀る者が多ければ、成功することはないだろう。庭中に意見が満っていれば、誰が過ちの責任を取るのだろうか。それは歩きながら他の人と話をするようなものと何が違うだろうか。得るところはないではないか』


 皆が好き勝手なことを言うだけで、責任を取る者がいないではないかという意味で、暗に子展の言は好き勝手なことを言っているに過ぎないと言ったことになる。


「楚に従おう。私が咎を受ける(責任を取る)」


 こうして子駟の強行の結果、鄭は楚と講和することになった。


「戦わずに楚と講和するのか?」


「はい、左様でございます」


 簡公は子駟から協議の結果を聞き、聞いた。


「理由は何であろう?」


「民を傷つけないためです」


「そうか……」


 簡公は頷き、彼を下がらせた。


「民を思い、頭を垂れるぐらいどうというものではないが……」


 簡公は自分の首を触る。


「せめて、誇りを持ちたいものだ……」


 そう思いながら、何故か子産の姿が浮かんだ。


 鄭の簡公(実際は子騑)が王子伯駢おうじはくひ(鄭の大夫)を送って晋に伝えた。


「晋君は我が国に『汝等の車賦(兵車)を整備し、汝等の師徒(車兵と歩兵)に警備させ、乱略を討伐せよ』とお命じになられました。そこで、命に従わない蔡に対し、我が国の人々は安逸を貪ることなく、我が国の軍事物資、武力を総動員致しまして、討伐を行い、司馬・しょうを捕え、邢丘で献上致しました。されど今、楚が我々を討ってこう申されました『汝等はなぜ蔡に兵を用いた』と楚は我が郊保(郊外の堡塁)を焼き、城郭を侵しております。我が国の衆は、夫婦男女(夫婦は既婚者。男女は未婚者。全国民の意味)が休むことなく助け合い、国が亡ぼうとしているのに訴える場所がございません。民の中で犠牲になる者は、父兄でなければ子弟であり、人々は憂い悲しみ、隠れる場所もございません。このように民が窮困に陥いり、成す術がなくなりましたので、楚の盟を受け入れました。私や二三臣(群臣)ではそれを止めることができず、報告しないわけにもいかないので、こうして使者を送りました」


 子騑が作成したのだが、仕方ないとはいえ、国君の立場から述べられたもので、自分の意見等は一切書かれていない。


 それを読んだ晋の知罃は書簡を叩きつけた。普段の彼からすると、珍しい姿である。


 彼は行人・子員しうんを送って応えた。


「鄭君が楚命を受けた時、一介の行人を送り、我が君(晋の悼公とうこう)に報告することもなく、すぐ楚に従った。これは鄭君が望んだことである。誰にも反対することはできないではないか。我が君は諸侯を率いて城下で会いに行くだろう。鄭君はよく考えよ」


 鄭のどっちつかずの外交は晋の怒りを大いに買うことになった。







小さな光明も鄭の闇を晴らすほどの輝きはまだ、持たず、

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