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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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季孫行父

 楚で子囊しどう(公子・てい)の字)が令尹に任命された。


 晋の士匄しかいが言った。


「我々は陳を失うだろう。楚は二心のある国を討伐し、子囊を抜擢した。必ず行い(子辛ししんの暴虐)を改め、迅速に陳を討伐するだろう。陳は楚に隣接しており、民は朝も夕も兵患を憂いている。楚に帰順しないはずがないではないか。陳を守るのは我が国の責任ではないのだから、陳を手放した方が後のためになるのではないか」


 されど冬、晋の命を受けた諸侯が兵を出して陳を守った。すると楚の子囊が陳を攻撃した。


 十一月、晋の悼公とうこう、魯の襄公じょうこう)、宋の平公へいこう、衛の献公けんこう、曹の成公せいこう、莒君、邾君、滕君、薛君、斉の世子・こう)が城棣で会し、陳救援に向かった。


 十二月、魯の季孫行父きそんこうほが世を去った。大夫の葬礼に従って襄公自ら葬儀に参加した。襄公らが季孫行父の家に行くと驚いた。


 宰(家宰。家臣の長)が家中の器物を集めて葬具を準備を行い、妾には帛(絹)を着ている者がなく、馬には余分な餌がなく、金玉財宝の蓄えもなく、同じ器物が複数あるということがなかったからである。


 君子は季孫行父が三君(宣公せんこう成公せいこう・襄公)に仕えながら財を貯めなかった忠心を称えた。


 ここで季孫行父の逸話を話す。


 彼は宣公と成公の相を勤めたが、帛を着る妾はなく、粟(穀物)を食べる馬もいなかった。


 仲孫它ちゅうそんたく子服它しふくたく仲孫蔑ちゅうそんべつの子)が諫めて言った。


「あなたは魯の上卿であり、二君の相を勤めてきました。されど妾が帛を着ることなく、馬が粟を食べることがないようでは、人々はあなたを吝嗇だと思い、国も栄華を損なうことになるのではありませんか?」


 季孫行父が言った。


「私も華侈でありたいと思う。しかし国民を観ると、多くの父兄は粗末な物を食べ、粗末な服を着ているではないか。だから私にはできないのだ。人の父兄が粗末な物を食べたり着たりしているにも関わらず、私が妾や馬に贅沢をさせれば、国君の相として相応しいと言えないとは思わないだろうか。そもそも、徳によって国に光華をもたらすというのは聞いたことがあるものの、妾や馬で国の栄華を誇示するというのは聞いたことがあるか?」


 後に季孫行父がこの事を仲孫蔑に話すと、仲孫蔑は仲孫它を七日間拘束した。


 仲孫它は反省し、その妾も粗末な服を身に着け、馬も雑草を食べるようになった。


 季孫行父はそれを見て、


「過ちを知りて、これを改めることができる者は、民の上に立つことができるものだ」


 と言って仲孫它を上大夫に抜擢した。


 一見、良い話しではあるものの、親にチクるというのはどうかと思うのだが……らしいと言えば、らしいとは思わなくはない。


 紀元前567年


 宋の華弱かじゃく(または「華溺」)と楽轡がくく(字は子蕩しとう)は幼い頃から仲がよく、親しい関係にあった。


 されど、それが大人になってからも続くとは言えないらしい。彼らは成長すると互いにけなしあい、中傷するようになったのだ。


 ある日の朝廷で、楽轡が怒って弓を華弱の首にかけ、枷のようにして首を絞めた。


 それを見た平公が言った。


「司武(司馬。軍政を掌る官。華弱を指す)でありながら朝廷で首を締められては、我が国が他国に勝利するのは困難ではないか?」


 平公は華弱を宋から追放することにした。


 夏、華弱が魯に出奔した。

 

 これは可笑しいと思った者がいる。司城・子罕しかんである。


 彼は平公に言った。


「同罪であるにも関わらず、罰が異なるようでは、刑とは申せません。朝廷で専横し、人を辱めることほど大きな罪があるでしょうか?」


 子罕のこの進言により、平公は楽轡は追放することにした。


 追放される時、楽轡は子罕の屋敷の門に矢を射てこう叫んだ。


「数日で汝も私に従うことになるだろう」


 しかしながら子罕は追放されることはなく、楽轡が後に戻っていくと今までどおり彼と接した。人としての格が違うと言える。


 莒が魯の属国・鄫を滅ぼした。


 冬、魯の叔孫豹しゅくそんひょうが邾に行って聘問した。


 二年前、邾が鄫を攻め、魯が鄫を援けるために出兵したため、邾と魯は敵対していた。しかし鄫が既に滅んだため、魯は邾と修好したのである。


 晋は魯に鄫滅亡の責任を問い、魯討伐の準備をした。魯は鄫を属国にしていたためである。


 魯の季孫宿きそんしゅく(季孫行父の子)が晋の処置を仰ぐため、晋を訪問した。



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