臧孫紇
楚が頓(陳附近の小国)を使って陳を討たせた。
だが、陳は逆に頓を包囲した。
晋の悼公は善政を行い、その名声は戎にも届くほどであった。
そこで、無終君・嘉父(無終は山戎の国名。嘉父は国君の名)が孟楽を晋に派遣し、魏絳を通じて、虎豹の皮を献上した。
晋と諸戎の講和が目的である。
悼公が魏絳に言った。
「戎と狄は親がなく(親しい者がなく。または親しむことができず)貪欲である。討伐した方が良いのではないか」
魏絳はこれに反対した。
「戎に対して軍を労し、諸華(中原諸侯)を失うようならば、たとえ功を立てましても、獣を得て人を失うようなものです。そもそも戎と狄は集まって生活しており、財貨を重んじ土地を軽んじております。財貨を与えて土地を得ることができるのであれば、一つ目の利となります。国境の耕農(農民)が警戒を必要としなくなるのであれば、二つ目の利となります。戎と狄が晋に仕えれば、四鄰諸国が恐れを抱きましょう。これが三つ目の利となります。主公はよく考えになり、決断されるべきです」
悼公は魏絳の進言に納得し、魏絳を派遣して諸戎を鎮撫させた。諸戎の脅威がなくなったおかげで、悼公は伯(覇者)の地位に登ることができたと言われている。
十月、邾と莒が鄫を攻めた。
魯の臧孫紇は鄫を援けるために邾に深く進攻したものの、狐駘で邾に敗れた。
魯の国民は髽という髪型で敗北した魯軍を出迎えた。
髽は本来、婦人が喪に服す際の髪型で、麻で髪を結ったものである。麻は入手しやすく、結い方も簡単だったため、狐駘の敗戦の情報が魯に届くと、婦人だけでなく多くの国人がこの髪型にして死者を迎え入れたようである。
それだけ戦死者が多かったことを意味する。
そのため魯の人々は小国の邾に大敗した臧孫紇を謗って歌を作った。
「狐裘(貴重な皮服)を着る臧は、狐駘(狐裘に近い音)で敗戦を導いた。我が君はまだ子供で、朱儒(侏儒。背が低い人。または国君の傍で娯楽を提供する役者のこと。ここでは臧孫紇のこと)を使っている。朱儒よ、朱儒よ、あなたが我々を邾に負けさせたのだ」
一度の敗北によって、臧孫紇は汚名を得ることとなった。戦とは難しいものである。
紀元前568年
当時、周王室は戎族の脅威を受けていた。
そこで周の霊王は晋に協力を求めるため、卿士・王叔陳生を晋に派遣した。しかし晋は王叔陳生を捕えてしまった。
晋の士魴が京師に行き、彼を捕らえた理由を述べた。
「王叔は戎に対して二心を抱き、使者としての使命を疎かにされたのです」
実際には、昨年、晋は戎と盟を結んだばかりだった。そのため周の要請に応えることができず、王叔陳生の二心を口実にして出兵を拒否したようである。
晋のこの演出はバレバレと言うべきものであるが、これがまかり通るほど、周王朝の権威は無かったのである。
夏、鄭の僖公が公子・発(子国)を魯に送って聘問させた。僖公の即位を報告するためである。
その後、公子・発は斉に行った。
魯の叔孫豹と鄫の世子・巫が晋に行った。鄫が正式に魯の附庸国になった。この時、晋に来ていた者がいた。
呉の寿夢が寿越を晋に派遣し、二年前の雞沢の会に参加しなかった理由を説明して謝罪していた。そして、呉としては晋の命令を聞き、諸侯と交流を結ぶことを主張した。
晋は呉に対し、不信感を抱きつつも、楚に対抗する上で呉の協力が必要と判断し、呉のために諸侯を集めることにした。まず、魯と衛に命じて呉と会見させた。
魯の仲孫蔑と衛の孫林父が善道(または「善稲」)で呉の寿越と会した。
寿越は帰国すると寿夢に会って、諸侯と会したことを話した。
「よくやったぞ寿越よ」
「有り難き、お言葉でございます。されど、雞沢の会に行っておれば、このような苦労はいらなかったのではないでしょうか?」
「確かにな、されど晋にへこへこして行っていては、この国の価値はあまり大したものではなくなってしまう。物を売りつけるならば、高値の方が良いとは思わないか?」
「いつまでも晋が大人しくしているか……」
「わかっている。そのへんはさじ加減さえ、間違えなければ良いのだ」
それを間違えない自信が彼にはあった。
二年前、陳が楚に背いたため、楚が陳を譴責し、その理由を問うた。陳は、
「令尹・子辛(公子・壬夫。楚の大夫)が私欲のために搾取したからです」
と訴えた。楚の共王はそこで子辛を殺した。
しかし陳は楚に服従することはなかった。どうにも君主として共王は舐められているようである。
九月、晋の悼公、魯の襄公、宋の平公、陳の哀公、衛の献公、鄭の僖公、曹の成公と莒君、邾君、滕の成公、薛君、斉の世子・光、呉の寿越、鄫人が戚で会した。
呉と諸侯の交流のためである。
この会で魯の叔孫豹は、鄫を魯の属国にしておくのは魯にとって利がないと考え、鄫大夫を独立した一国の代表として会に参加させた。
翌年、鄫は莒に滅ぼされることになる。魯は莒が鄫を攻めることを知っており、鄫を保護する力がないと判断したため、属国から外した可能性がある。
この会で、晋は諸侯に陳の戍(防衛)を命じた。




