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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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肆夏の三曲

遅くなりました

 許の霊公れいこうが楚に帰順しており、雞沢の会に参加しなかったため、冬、晋の知罃ちおうが許を攻めた。


 楚の公子・何忌かき(司馬)が陳を侵した。陳が楚に背いて晋と同盟したためである。


 紀元前569年


 年が明けても楚軍は陳の繁陽に駐軍した。


 春、晋の韓厥かんけつ(中軍の将)が心配して朝廷で言った。


「かつて文王ぶんおうは商に背いた国を従えながら、紂王ちゅうおうに仕えた。時を知っていたからである。今の我々の状況に置き換えてみると、楚を帰順させる力がないにも関わらず、晋が陳を受け入れるのは難しいのではないのか」


 三月、陳の成公せいこうが楚の侵攻を受けている中、死に、子の哀公あいこうが立った。成公は己の死とともに、陳を生きながらせたとも言えなくはない。


 楚の公子・何忌は陳の喪を知って兵を還した。それにより、陳は楚に従うことはなかった。


 これを聞いた魯の臧孫紇ぞうそんこつはこう言った。


「陳が楚に服さねば、必ず滅びることになるだろう。大国が礼を行ったにも関わらず、帰服しないようでは、大国でも咎(禍)を受けるもの。小国ならなおさらではないか」


 夏、楚の彭名ほうめいが陳の無礼を譴責して再び進攻した。


 哀公は生者でありながら国への侵攻を招いた。礼というものに気を付けなかったからである。


 夏、魯の叔孫豹しゅくそんひょうが晋に来た。知罃の聘問に応えるためである。


 晋の悼公とうこうは叔孫豹をもてなして『肆夏(曲名。詳細は不明)』の三曲を金奏した。


 因みに金奏というのは鐘や鎛で演奏して鼓で節をつけることである。


 されど叔孫豹はこれに答拝をしない。


 工(楽人)が『文王』の三首(詩経・大雅の文王、大明、緜)を歌っても、叔孫豹は答拝しなかった。


 次の『鹿鳴』の三首(詩経・小雅の鹿鳴、四牡、皇皇者華)を歌うと、叔孫豹はやっと三拝した。


 因みに一首ごとに一拝を行う。


 韓厥が行人(賓客を接待する官)・子員しうんに通じて叔孫豹に問うた。


「あなたが君命によって我が国に訪れましたので、先君の礼を用い、音楽を献じてあなたをもてなしました。しかしあなたは大を棄て、細(小)を重ねて拝された。これは何の礼によるものでしょうか?」


 叔孫豹が答えた。


「『三夏(肆夏の三曲)』は天子が元侯(牧伯。諸侯の長)をもてなすための曲でございますので、使臣足る者が聞くべきではございません。『文王』は両君が相見した際の音楽でございますので、使臣足る者が関わってはなりません。『鹿鳴』は国君が我が君を嘉するためのもの(『鹿鳴』には「素晴らしい賓客が来たれり」等の句がある)。拝さないわけにはいきません。『四牡』は国君が使臣を労う詩です。重ねて拝さないわけにはいきません。『皇皇者華』は国君が使臣に『忠信なる者に意見を求めよ』と教える内容です。『善(忠信)なる者を訪ねて意見を聞くことを咨と申し、親戚に聞くことを詢と申し、礼について聞くことを度と申し、政事について聞くことを諏と申し、困難について聞くことを謀と申す』と言われております。私はこの五善を得ることができました。三拝しないわけにはいきません」


 叔孫豹は見事に使者としての責務を果たした。


 七月、魯の夫人・定姒ていじ。(成公せいこうの妾で襄公じょうこうの母)が死んだ。


 彼女の死体は廟に置かれず(周代の礼では、死者は廟に置かれて葬儀を待った)、櫬(内棺)もなく、虞祭(死者の霊が安らかになることを祈る儀式のこと)も行わなかった。


 二年前に斉姜せいきょうを成公夫人として葬儀・埋葬したため、妾だった定姒の葬儀は疎かにされたのだ。


 この様子を見て、工人・匠慶しょうけい季孫行父きそんこうほに言った。


「あなたは正卿でありながら、小君(国君の母)の喪を成さりません。これでは国君が生母を葬送できません。国君が成長された時、誰が咎を受けるでしょうか」


 それど季孫行父は何も言わなかった。


 以前、季孫行父は蒲圃の東門の外に六本の檟木(良木)を植えていた。匠慶が棺用の木を求めると、季孫行父は、


「簡単に造れ」


 と命じた。しかし、匠慶は蒲圃から檟木を伐って立派な棺を作った。それを知りつつも季孫行父はそれを止めさせなかった。


 八月、魯が小君・定姒(定は諡号)を埋葬した。


 こうやって見ると魯という国にはやけに建築関係の人物が政治へ苦言や助言を良くする国だと感じる。魯は礼式を重んじるため儀礼に用いる物を良く職人に作らせていたのかもしれない。だから、そのような者たちが魯には多いのかもしれない。


 冬、魯の襄公じょうこうが晋に行って聴政した。


 聴政というのは政事についての意見を聞くことと、朝見や貢物等の要求を聞くという意味がある。


 晋の悼公が宴を開いて魯の襄公をもてなすと、魯の襄公は小国の鄫を魯の附庸国にすることを請うた。


 悼公は拒否したが、襄公に同行していた仲孫蔑ちゅうそんべつが言った。


「我が君は仇讎(斉・楚)に近接しておりますが、貴君に仕えることを願い、官命(晋君の命)に背いたこともございません。鄫は貴国の司馬に賦(税。貢物)を納めたことがございませんが(晋の司馬は諸侯の賦を管理している)、執事(晋の執政者)は朝も夕も我が国に命じております(賦を要求している)。我が国は小さいため、要求に応えることができず、罪を得ることになりましょう。よって我が君は鄫の助けを借りたいと願っているのです」


 悼公はこれに同意した。



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