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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第二章 覇者の時代へ
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彼の名を知るは

 夏、蔡が陳に攻め入ると、陳の桓公の太子・免を殺した五父を殺した。


 太子・免の弟である躍の母は蔡の人であったため、蔡は躍を国君に着かせるため五父を殺し、躍を即位させた。こうして即位した躍を陳の厲公という。


 九月二十四日、魯の桓公と文姜との間に息子が生まれた。


 当時、太子が生まれると生まれて三日以内に大牢(祭祀で用いる牛・羊・豚三種類の犠牲)を用いてから太子を迎え、三日目に卜いで選んだ士が太子を抱き、その士の妻が太子の乳母とした。三月経つと国君と夫人、宗族の婦が命名する。


 命名に際し、桓公は大夫・申繻に太子の命名について問うた。申繻はそれにこう答えた。


「名のつけ方には。信・義・象・假・類の五種類あります。生まれた時の特徴によって命名することを『信』といいます。徳(瑞祥)に因み命名することを『義』といいます。似ている物によって命名することを『象』といいます。万物の名から命名することを『仮(借)』といいます。父に関係することから命名を『類』といいます。また、名に用いないものは国名・官名・山川の名・病名・器物・礼品の名です。周人は諱によって神に仕えています。名はその人が死んだら諱んで使いません。だから国名を人の名にしたら、国はその名を使うことができず、官名を人の名にすれば、官名を変えなくてはならず。山川を人の名にしたら、山川の名を変えることになり、その主(山川の神)を廃すことになります。畜牲(牛・羊・豚等)を人の名に用いれば、犠牲を使えなくなり祭祀を行うことができなくなります。器幣を人の名にすると礼に用いることができなくなります。晋は僖侯の名が司徒であったために司徒を中軍に変え、宋は武公の名が司空ために司空を司城に変え、我が国も先君・献公と武公のために二つの山の名を廃しました(献公の名は具、武公の名は敖だったため、具山と敖山の名が廃された)。このように、大きな事物で命名してはならないのです」


 それを聞いた桓公は、


「この子は私と同じ干支に生まれたこの子の名は同としよう。この名でどうだ」


 そう言ってから文姜の方を向くと、彼女は、


「えぇその名でよろしいかと」


 素っ気なくそう返すだけであった。だが桓公はそんな文姜を気にせず、彼女との間に生まれた同の存在をとても喜んだ。その喜びをわかっているのか同は桓公に笑みを浮かべていた。そのため桓公は更に喜ぶがそんな桓公を文姜は冷めた目で見つめるだけであった。


 この桓公と文姜の間に生まれた同は後に魯の荘公と云い、魯において名君と言われる人物になる。


 そんな魯の荘公と相対すことになる男がこの頃、鄭の首都に居た。


 その男の外見は平凡である。もっと言えば陰気な雰囲気が彼の纏っていたため、その外見は更に暗く感じさせた。そんな彼は鄭の人々をじっと見ていた。だが彼の目には人々の姿は見えてはなく、別のものを見ているようでもあった。


「見ているだけでは商売などできないではないのかな?」


 男の雰囲気とは真逆の明るく力強い声が男の後ろから聞こえてきた。


「鮑叔か」


 男は呟くように声の主の名を言った。この鮑叔という男は斉の出身であり、父は斉の大夫である。だが何故か彼は男と商売をやっていた。


「で、何を見ているんだい」


 声を弾ませ、鮑叔は男に問いかける。男からどのような言葉が出るのか期待しながら。


「この国は欲が無いな」


 男はそう言った。だが鮑叔はそんな男の言葉に疑問を持った。なぜなら鄭は中原における大国であり、さらに今、自分たちはそんな鄭の首都の市場に来ている。この市場ほど人の欲というものが表れている場所はないはずである。現に市場には様々な声が飛び交えっている。


「どうだね、南方から取ってきた玉なのだが」


「西方の秦から取ってきたものだ、如何かな」


「もっと安くはできないのかね」


「これ以上はちょっと」


 それにも拘わらず、目の前の男には欲がないと言う。


「私にはこの国に欲がないとは思わないのだが」


「確かに一見欲があるように見えるだがこの国はあまり欲は無い。特に、この国を治める長に」


 そうだろうかと、鮑叔は疑問に思う。なぜなら鄭を治める長である鄭の荘公はもはや名実ともに諸侯をまとめる盟主であり、周の軍さえ退けた人物でもある。もはや荘公に敵う相手はいないと言っていい。そんな人物に欲が無いと思えなかった。


「この国の長は周王に勝ってしまった。周王という強い存在であったはずの者を退けてしまったことにより、この国の長には脅威に思う相手がいなくなったと言っていい。そのためこの国は成長することによって他国と競い合おうという意思が薄れている。そして、今の状態を維持しようとする意思が広がっている。そのためこの国に欲が無いと言える。いやもっと言えばこの国は虚しさに苛まれていると言えるのかもしれない」


「虚しさ……ならば君は周に鄭は負けるべきだったと、もしくは周王朝に取って代わるべきだったと言うのかい」


 鮑叔は複雑そうに言った。男の言葉を聞いているとそう思うしかない。


「そこまでは言うつもりはない。だがこの国は今、難しい時期に入ったと言うべきかもしれないということさ。この先、この国が発展できるのかそれとも……特に今の鄭の主が世を去った時に国がどうなっていくのか」


 鮑叔は男の言葉が少しだが理解した。男が言いたいのは荘公がいなくなった後のことを言っているのだと、今は荘公という強力な盟主によって諸侯はまとまっていると言える。しかしながらそんな荘公がいなくなった時、諸侯はまとまりを欠き、さらなる争いが生まれるかもしれない。


 そのために鄭は諸侯の盟主国として今の状態に満足することなく、もっと力を付け、荘公亡き後も盟主として君臨しなければならないのではないのか。だが、今の鄭にそのような意思は感じられない。


「鄭が盟主足りえなくなった後どうなるのだろうか」


「何処かの諸国が盟主になるのかそれとも争い続けるのかどちらにしてももっとも被害を受けるのは民であろうな」


 あぁ、どうしてこれほど世を憂い、天下の民を思いやる男の名を誰も知らず、用いられないのか。鮑叔は思わず嘆いた。目の前の優しき人物が用いられない世に彼は嘆く。


 鮑叔の前にいる男こそ春秋時代もっとも優れた名宰相と称えられ、後の諸葛亮が尊敬したと言う。管仲である。


 だがこの頃、彼の名を知るのは鮑叔と天のみであった。


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