晋の悼公
二月、孫周が朝廷で正式に即位した。これを晋の悼公という。
即位すると彼は言った。
「私の大父(祖父)と父は即位することができず、周に難を避けて客死(他国で死ぬこと)した。私はもともと疎遠な立場に居り、国君の地位を望むことはなかった。されど今、汝らは文公・襄公の意を忘れず、桓叔(悼公の祖父。襄公の子)の後代に恩恵を与えて国君に立てた。宗廟と大夫の霊(福)により、晋祀を奉じることができたのである。よって、私は戦戦兢兢としなければならない。汝らは私を補佐せよ」
悼公は臣下として相応しくない者を放逐し、旧功を修めて徳恵を施し、かつて文公に従って亡命した功臣の子孫を厚く遇して百官を任命し、民に施しを与え、責(民が国に対して負った借金)を免除し、鰥寡(身寄りがない者)を救い、優秀な人材を抜擢し、困窮に苦しむ者を救済し、災患に苦しむ者を救い、淫乱姦悪を禁止し、税を減らし、法を寛大にし、倹約に勤め、時節に応じ民を用い、政令が農時に干渉しないようにするなど、先君までの旧制を改めさせた。
彼はその次に魏相(呂相。魏錡の子)に会って、下軍の将に任命してこう言った。
「邲の役において、呂錡(魏錡)は荀首を下軍で援け、楚の公子・穀臣と連尹・襄老を得て子羽(知罃の字。荀首の子。楚の捕虜になった)を釈放させた。また、鄢陵の役においては、呂錡が楚王(共王)を射て楚軍を破り、国に勝利をもたらした。それにも関わらず、その子孫は顕官に就いていない。子孫を抜擢しないわけにはいかない」
次に悼公は士魴を新軍の将に任命してこう言った。
「士会の季(少子・士魴のこと)は士燮の同母弟である。汝の父は法を明らかにし、国を安定させ、その法は今もなお、用いられている。汝の兄は身を尽くして諸侯を服従させ、国は今もその功績に頼っている。これは二子の徳によるものであり、忘れてはならない」
士魴は士会の長嫡子ではないが、卿に任命され、士氏の宗族を守るように命じられた。
悼公は魏頡(魏犨の孫、魏顆の子)を新軍の佐に任命して言った。
「かつて潞の役で勝った晋に秦が攻撃してきた際、、魏顆は自分の身をもって秦軍を輔氏で撃退し、杜回を捕えた。その勳功は景鍾(景公の鐘)に刻まれている。されどその後代は今に至るまで抜擢されていない。魏顆の子を用いなければならない」
更に趙武を若くして卿に任命した。
欒書がこの時、公族大夫を任命するよう求めた。公族大夫は貴族の子弟の教育を担当する。
それに答え、悼公は荀家、荀会(荀家の一族)、欒黶(欒書の子)、韓無忌(韓厥の長子。穆子)を挙げた。
「荀家は無骨であり、荀会は文才があり、かつ鋭敏である。また、欒黶は果敢であり、韓無忌は慎重で冷静である。この四人を公族大夫にするべきと私は考えた。膏粱の性は驕慢放縦で、正すのが難しいからだ」
膏粱の性の膏は肉の脂のこと。粱は食物の精髄のことである。
ここでいう膏粱の性とは贅沢な生活をしている貴族の子弟の性格ということである。
「無骨の者がそんな彼等を教えれば、教えが偏ることなく、彼等が怠ることもなくなるだろう。文才があり、かつ鋭敏の者が彼等を導けば、彼等は教えに対して従順になるだろう。果敢な者が彼等を戒めれば、彼等は過ちを隠さなくなるだろう。慎重で冷静な者が彼等を修めれば、彼等は穏重で専一(集中すること)になるだろう。よって、この四人が公族大夫にふさわしい」
次に士渥濁が志(古典)に通じているため博聞であり、遍く教育を施すことができると判断し、彼を大傅に任命して、士会が作った法を修めさせた。
更に賈辛が計算を得意とし、事象を明らかにして功を定めることができる(これは正確に計測を行って、建設工程を完成させることができるということ)と判断し、彼を司空に任命して、士蔿が作った法を修めさせた。
そして、弁糾(欒糾)が御術を得意とし、軍政を援ける才があると判断し、戎御(国君の兵車の御者)に任命した。彼に校正(馬を管理する官)をその管轄下に置き、御者に義を教えさせた。
次に荀賓が勇力を持つものの、粗暴ではないため、悼公の戎右(車右)に任命して近くに置いた。彼に司士(六卿の車右)を管轄下に置き、勇力の士を教育させた。
今までは卿(各軍の将・佐)の御者が固定していたが、今後は御者を固定せず、軍尉に御者を兼任させた(これまでは御者の他に軍尉がいたが、悼公によって統一された)。
そのため祁奚(字は黄羊)を果断でありながら度を越えることがない人物であるため、元尉(中軍尉。軍政に携わり、各将・佐の御者を管理する官)に任命した、
そんな彼を聡敏かつ恭敬な羊舌職に補佐させた。
魏絳(荘子)を勇があって乱れることがないと判断して司馬に任命し、
智慧があっても詐術を用いない張老(張孟。老は名、孟は字)を候奄(元候。候正。間諜や偵察を監督する官)に任命し、
恭敬で誠実堅強な鐸遏寇(鐸遏が姓)を上軍尉に任命し、敦厚で職責を守り、恭順な籍偃(籍游)をその司馬にした。
籍偃が卒乗(歩兵と車兵)を訓練し、兵達は命令に対して従順になったという。
実で奸邪がなく、諫言を好んで隠すことがないとし、程鄭(荀騅の曾孫)を乗馬御に任命し、六騶(六ヶ所の厩舎。百八人)を管轄下に置き、群騶(車馬を管理する官)に礼を教えさせた。
六官(各部門)の長は全て民の称賛を得た者が選ばれた。
抜擢された者たちは職責を全うできないことを恐れ、官員は常法旧典を変えず、徳に応じて官職が与えられ、正・師・旅(官吏の序列。正は各部門の長)の秩序を保ちことを心がけ、下が上を侵すことがなかった。
こうして民の誹謗がなくなり、晋の最後の名君と歌われし男であると言われた悼公は晋の覇業を恢復させていった。




