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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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晋の厲公

 晋の厲公れいこうは贅沢を好み、外嬖(寵愛する大夫。胥童しょどう夷陽五いようご(または「夷羊五」。夷陽が氏)・長魚矯ちょうぎょきょう(長魚が氏)等)も多数いた。


 鄢陵の戦いで晋が大勝したため、慢心した厲公は諸大夫を退けて左右の近臣を抜擢しようとした。


 この動きに最も積極的に協力していたのは、胥童(胥之昧。之昧は字)である。彼の父は胥克しょこくである。


 彼は郤缺げきけつに廃されたため、郤氏を憎んでいた。


 夷陽五も郤錡げききに田地を奪われたため、郤氏を憎んており、長魚矯も郤犨げきしゅうと田地を争い、逮捕されて父母・妻子と共に車轅に繋がれたことがあった。そのため郤氏を憎んでいた。


 寵臣たちが皆、郤氏への恨みを持っているという状況に加え、政権の長である欒書らんしょも鄢陵の戦いで守備を固めるように主張したが、郤至が反対して速戦を求めたことで、郤至を排斥したいと考えていた。


 そのため胥童たちは欒書に近づいた。郤氏を排斥するためである。


(郤氏を滅ぼす……)


 欒書という人物は正しいことをしたいと考えている人物である。そのため郤氏という傲慢であり、正義を求める自分の邪魔することを許せなかった。だが、


(正義を成すために邪魔な者は他にもいる)


 厲公の寵臣たちであり、そして、厲公自身である。


(全ては国のためだ)


 欒書は晋の捕虜になっている楚の公子・茷に使者を送った。楚に返す上で厲公にこう言うように言った。


 公子・茷から厲公にこう伝えた。


「あの戦はそもそも郤至が我が君(楚の共王きょうおうを誘ったが故で始まったのです。東師(斉・魯・衛の三軍)がまだ到着せず、軍帥も整っていなかったにも関わらず(下軍の佐・知罃ちおうは晋都を守り、新軍の将・郤犨げきしゅうは各国に出兵を要請していたため、将佐がそろっていなかった)、郤至が我が君にこう申されました『この戦いは晋が必ず敗れましょう。それを機に、私が孫周そんしゅう公孫周こうそんしゅう)を奉じて楚君に仕えましょう』と」


 孫周とは祖父を捷といい、晋の襄公じょうこうの少子にあたる人物である。公子・捷は桓叔かんしゅくと号した。


 桓叔は恵伯・だんを産み、談が周を産んだ。これが孫周である。


 彼は当時、周王室で単襄公ぜんじょうこうに仕えており、才気のある人物として知られていた。


 厲公が公子・茷の言葉を欒書に伝えると、欒書は内心、笑いつつこう言った。


「その通りかもしれません。そうでなければ死を恐れず敵の使者に会うとは思えませぬ(郤至は鄢陵の戦いで共王の慰問を受けた)。主公は試しに郤至を周に送って観察してみては如何でしょうか?」


 郤至は周王室を聘問することになった(前年の事)。


 欒書は孫周にも使者を送り、聘問に来た郤至に会うよう指示した。


 厲公が送った者は、郤至と孫周が会見したことを報告した。こうして厲公は郤至を憎むようになった。


 この年、厲公が狩りに行った。婦人と禽獣を狩ってから酒を飲み、その後、大夫に狩りをさせた。


 本来の礼では、狩りに婦人を参加させるべきではなく、諸侯が矢を射て禽獣を殺せば、大夫が狩りを始めることになっていた。


 郤至が豕(猪)を捕まえて厲公に献上しようとすると、寺人(宦官)・孟張もうちょうがそれを奪った。孟張は厲公の近臣である。これに怒った郤至は矢を射て孟張を殺した。


 それを知った厲公は激怒した。


「季子(郤至)は余を侮るつもりか」

 

 厲公が郤氏討伐を考え始めると胥童が進言した。


「まず、郤氏の中でも三郤(郤錡・郤犨・郤至)を除くべきです。彼等は族が大きく、たくさんの怨みを買っております。大族を除けば、公室を逼迫する者がなくなり、怨みが多い者を討伐すれば、容易に成功しましょう」


 厲公は同意した。


 郤氏がこの厲公の動きを知った。郤錡が先に厲公を討とうと考え、こう言った。


「主公が我々に道を行おうとしない。私は宗族や党人と共に反撃しようではないか。たとえ我々が死んだとしても、国を混乱させ、主公に危難を与えることができる」


 とんでもない意見である。彼の言葉だけで彼が国を担う人物である資格を有してないことがわかる。


 これに郤至が反対した。


「人は信・知・勇によって立つことができるもの。信は君に叛しないこと、知は民を害さないこと、勇は乱を成さないことである。この三者を失い、誰が我々と親しくするのか。死んで怨みを多く残しても、意味はないではないか。国君には臣下がおり、自ら己の臣下を殺したとしても、臣下は国君をどうすることもできない。もしも我々に罪があるのであれば、我々の死は遅いくらいだ。国君が不辜を殺せば、自ら民を失ってその地位を保つこともできなくなる。我々が動くべきではない。君命を待つだけである。国君の禄を受けながら、それを使って党を集め、君命と争うことほど大きな罪はないではないか」


 彼の言葉には潔さがある。


 厲公が胥童と夷羊五に甲士八百人を率いて郤氏を攻撃させた。


 されど長魚矯が多数の兵を動員することに反対したため、厲公は側近の清沸魋せいふつたいに長魚矯の補佐を命じ、二人を郤氏の屋敷に派遣した。


 二人はそれぞれ戈を持ち、服の襟を結んで訟者(訴えを行う者。郤氏に意見する者)の姿になった。


 三郤は榭(台上の部屋)で長魚矯等と話をしようとしたが、長魚矯が隙を見つけて戈を突き出し、郤錡と郤犨を殺した。


 郤至は、


「犬死はごめんである」


 と言って逃走しようとした。このような小物に殺されたくなかったのだろう。長魚矯が郤至の車を追いかけ、戈で殺した。


 三人の死体は朝廷に並べられた。


 郤氏の妻妾は厲公の後宮に入れられ、財産は厲公の婦人に分け与えられた。かつて郤缺という偉大な人物を産んだ郤氏一門は滅んだ。


 この報告を受けて、胥童は甲士を率いて朝廷で欒書と荀偃じゅんえんも捕えた。彼らとしては彼らの矛先が自分たちに及ぶことを知っているのである。


 長魚矯が厲公に進言した。


「二子を殺さなければ、憂いは主公にも及びます。即刻、殺すべきです」


 ところが厲公は臆病風に吹かれた。


「一朝に三卿を殺したのだ。これ以上殺すのは忍びない」


 長魚矯は嗚呼と天を仰いだ。


「欒書、荀偃が主公を制御しようとしております。乱が外(朝廷の外。民衆)にあることを姦といい、内(朝廷内。大臣群臣)にあることを軌と申します。姦を御するには徳(教化)を用い、軌を御するには刑を用いるべきです。姦に対し、恩恵を与えることなく殺戮すれば、徳とはいえず、臣下が国君を逼迫しながらこれを討伐しなければ、刑とは申せません。徳と刑が両立できなければ、姦と軌が共に訪れることになります。私が去ることをお許しください」


 と言って、狄に出奔した。


 結局、厲公は使者を送って欒書と荀偃にこう伝えた。


「私は郤氏を討伐し、郤氏は既に罪に伏した。大夫は捕えられたことを恥とせず、職位に復すように」


 二人は再拝稽首して言った。


「主公が罪のある者を討伐し、我らの死を免じられましたのは、主公の恩恵というもの。二臣は死んでも君徳を忘れません」


 内心、舌を出しながら欒書と荀偃は家に帰った。


 胥童は帰してはならないと言いながらも厲公は胥童を卿に任命し、聞き入れなかった。


 後日、厲公が翼にある寵臣・匠麗しょうり氏(大夫)の家で遊びに言った。その隙を衝いて、欒書と荀偃が厲公を捕えた。


 二人は自分たちを支持してくれる者を増やすため、先ず士匄を招こうとした。しかし彼は喪に服している身であり、士匄は辞退した。


 次に韓厥かんけつを招くと、韓厥も辞退して言った。


「主公を殺して威信を求めるようなことは、私にはできかねます。主公に対し、威を用いるは不仁。事を失敗させるのは不智。一利を享受できたとしても、一つの悪名を得ることになると言うのであれば、私は協力できません。昔、私は趙氏に養われましたが、孟姫もうきの讒言があった時でも兵を出しませんでした。当時でも私だけは兵を出すことを拒否したのです。今回も拒否することを恐れません。古人はこう申します。『老いた牛を殺す時といえども、筆頭になりたくはないものだ』相手が国君ならなおさらです。国君に仕えることができない二三子(あなた達)が、なぜ私を使おうとするのですか」


 彼はこのような場合において組むとしても趙氏だけである。


 荀偃が韓厥を討とうとしたが、欒書が止めた。


「良いのか。あの者は趙盾ちょうとんには従っていたにも関わらず、我らには従わないというのだぞ。我らが趙盾以下と言っているようなものではないか」


「ならぬ。彼は趙盾が先君を殺した時は従わなかった人物であるため、好き勝手に付き従う人物ではないことはわかるではないか。そもそも彼は果(果敢)であり順(言葉に道理がある)である。順ならば失敗することはなく、果ならば達成できないことはないものだ。順を犯すのは不祥であり、果を討っても勝てない。果によって人を従え、順によって行動する者に対して、民が背くこともない。我々が攻撃したとして、勝てるはずがない」


 荀偃はあきらめた。


 十二月、欒書と荀偃が胥童を殺し、


 紀元前573年


 正月、欒書と荀偃は程滑ていかつを翼に派遣して、幽閉していた厲公を殺した。


 厲公は翼城東門の外に埋葬された。


 通常、諸侯の副葬には車七乗が用意されるものであったが、厲公の副葬に使ったのは車一乗だけであった。


 彼の死については徳がないにも関わらず、功業が多く、服従させた者(諸侯)が多かったため、憐れな死を招いたとした。


 士燮が心配したことが的中したと言えよう。




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