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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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宋大夫の出奔

 紀元前576年


 晋の厲公れいこう、魯の成公せいこう、衛の献公けんこう、鄭の成公せいこう、曹の成公せいこう、宋の世子・せい(宋の共公きょうこうが病で出席できなかったため、世子が出席した)、斉の国佐こくさおよび邾が戚で盟を結んだ。


 二年前に曹の成公が宣公の太子を殺して即位したため、晋は彼の罪を裁き、捕えて京師(周都・洛邑)にった。


 諸侯は曹で信用のある公子・欣時きんじ子臧しぞう。成公の弟)を周王に謁見させて曹君に立てようと考えた。しかしながら欣時は辞退して言った。


「前志(古書)にはこうあります『聖人は節に達し、次なる者は節を守り、下なる者は節を失わん』国君になるのは私の節ではございません。私は、聖人になることはできませんが、節を失うこともできません」


 子臧は逃走し、宋に亡命した。


 六月、宋の共公きょうこうが世を去った。少子・せいがこれを継いで即位した。これを宋の平公へいこうという。何故、太子でなく少子と思われるが、それについては後に述べる。


 













 中原諸侯が盟を結んでいる中、楚が北に出兵しようとした。


 子囊しどう(公子・てい。楚の荘王そうおうの子。楚の共王きょうおうの弟)が反対して、


「晋と盟を結んだばかりにも関わらず、これに背くのは、相応しくないのではないでしょうか」


 と言ったが、子反しはんはこう言った。


「敵に対して我々に利があれば我々が進むだけである。盟約などに意味はない」


 既に年老いた申叔時しんしゅくじが申邑でこれを聞くとため息をつき、こう言った。


「子反は禍から逃れることができないだろう。信とは礼を守り、礼は身を守るもの。信も礼も失ってしまえば、禍から逃れたくても無理であろう」


 共王が鄭を攻撃し、暴隧に至ってから、衛を侵して首止に達した。


 鄭の子罕しかんが反撃を行い、楚の新石(邑名)を取った。


「珍しいあの人が戦で勝ったぞ」


 鄭の群臣たちは驚きながら喜んだ。それと同時に楚の侵攻を晋に伝えた。


 晋の欒書らんしょが楚に報復しようとしたが、韓厥かんけつが反対した。


「必要ないでしょう。彼等の罪を更に重くさせれば、民が離心します。民がいないにも関わらず、誰と戦うことができましょう」


 晋はこうして楚の行動に手をつけなかった。


「晋は楚を牽制しようとしないか……」


 鄭は晋に不信感を抱き始めた。大国の視点と小国の視点には差があるというべきだろう。

 













 秋八月、宋が共公を埋葬した。


 宋は華元かげんを右師に、魚石ぎょせき(公子・目夷もくいの曾孫)を左師に、蕩沢とうたく(名はさん。公子・寿じゅの孫。大司馬・の子。蕩は唐の音と近いため、「唐山」ともいう)を司馬に、華喜かき華父督かほとくの玄孫)を司徒に、公孫師こうそんし

荘公そうこうの孫。父は右師・じゅつ)を司城に、向為人しょういじん(向が氏。桓公かんこうの子孫)を大司寇に、鱗朱りんしゅ(桓公の子である公子・りんの子孫)を少司寇に、向帯しょうたい(桓公の子孫)を大宰に、魚府ぎょふ(魚石の弟)を少宰に任命していた。


 共公死後、蕩沢が公室の権力を弱くするため、公子・(共公の太子)を殺し、平公を立てていた。


 華元が言った。


「私は右師であり、君臣の教導を担う立場にいるにも関わらず、公室が衰弱していることに対し、正すことができない。私の罪は大きい。職責を全うできないのに、寵を得て自分の利とするわけにはいかない」


 華元は晋に出奔した。


 二華(華元と華喜)は戴族(戴公たいこうの子孫)で、司城(公孫師)は荘族(荘公の子孫)ですが、それ以外の六官(魚石・蕩沢・向為人・鱗朱・向帯・魚府)は桓族(桓公の子孫)であった。


 その一人である魚石が華元の出奔を止めようとすると、魚府が止めた。


「右師が還ってくれば、蕩沢を討伐しようとしましょう。そうなれば、禍は桓氏におよび、我々も滅ぼされてしまいますぞ」


 魚石が言った。


「右師が帰国して蕩沢を討伐したとしても、桓氏を全滅させることはないはずだ。そもそも彼は多くの大功を立てたにも関わらず、国民の支持を得ている。彼を帰国させなければ、逆に桓氏の祀が宋で行われなくなるだろう(宋人の反感を買って桓氏が滅ぼされるだろう)。また、右師が桓氏を討伐したとしても、まだ戌(向戌しょうじつ。桓氏に属している人物だが華元と近い関係である)がいる。我々が亡んでも桓氏の一部は残る」


 魚石は黄河沿岸で華元を説得した。華元は蕩沢の討伐を請い、魚石は同意した。


 華元は帰国すると華喜と公孫師に国人を率いさせて蕩氏を討たせた。こうして蕩沢は誅殺された。


 魚石、向為人、鱗朱、向帯、魚府は桓氏として内乱の責任を負い、都城を出て睢水の辺に住むことにした。


 それに対し、華元は使者を送って五人に帰国を勧めたが、五人は拒否した。


 十月、華元が自ら五人を説得しに来たが、五人はやはり拒否した。華元は一人で帰っていったが、その姿を見ていた魚府は他の四人に言った。


「今、右師に従わなければ、我々は本当に国都に帰れなくなるだろう。右師は目が素早く動き、話す口調も速かった。他の考えがあるはずで、本心から帰還を勧めているのではないだろう。我々を迎え入れる気がないようならば、今頃は車を馳せて帰っているだろうよ」


 五人が丘に登って遠くを眺めると、華元が急いで車を駆けさせる姿が見えた。


 五人も車で華元を追いかけ始めた。


「おや、気づいたか」


 しかし華元は既に準備を行っていた。睢水の堤防を開いて道を塞ぎ、城門を閉じて城壁に登った。


 城には既に兵士たちが待機していた。五人が武力を用いることに備えて士卒に武装を命じていたのである。


 左師(魚石)・二司寇(向為人と鱗朱)、二宰(向帯と魚府)はこれでは帰国することはできないと判断し、楚に奔った。


「楚に逃れてしまったが、宜しいので?」


 桓族の勝ち組というべき向戌がそう言った。


「まあ、良かろう」


 華元は軽い感じでそういった。


「楚が彼らを利用とするのでは?」


「もし、そのようなことをしても楚には何の得がなかろう。そもそもあの程度の者たちに何ができるだろうか」


(楚の先君が相手であれば、始末したがな)


 華元としては処罰するべきという考えであったものの同僚という同情もあった。


(できれば、楚で大人しくしていてもらいたいものだ)


 彼はそう思った。


 華元は向戌を左師に、老佐ろうさ(戴公の子孫)を司馬に、楽裔がくえい(戴公の子孫)を司寇に任命して国内を安定させた。




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