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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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魔が差す

 六月の夜のこと、鄭の公子・はん子如しじょ。紀元前581年に許に出奔していた)が訾(恐らく楚地)から鄭の大宮(祖廟)に入ることを要求したが、鄭はこれを拒否した。そのため彼は私兵を連れ、子印しいん子羽しう(どちらも穆公ぼくこうの子)を殺し、市に駐軍した。


 この事態に子駟ししが鄭の国人を率いて大宮で盟を結び、兵を率いて全て焼き払い、子如、子駹しぞう(子如の弟)、孫叔そんしゅく(子如の子)、孫知そんち(子駹の子)を瞬く間に殺した。


 この報告を子国しこくは鄭の成公せいこうの伴として秦との戦を終え帰国した時に聞いた。


「対応が早いことだ。流石は子駟殿よ」


 彼は子駟とは仲が良い方である。そう思いながら彼は自分の家に帰った。


「お帰りなさいませ父上」


 出迎えたのは青年というよりは少年と言った方が正しいかもしれない。彼は子国の息子で名はきょう国僑こくきょうまたは公孫僑こうそんきょうとも言うが、字の子産しさんが後世の中で最も有名である。


「うむ、帰ったぞ」


 子国は息子のことをとても思いやっているが、どうにも息子はあまり自分に似てないと感じることがある。


(どうもこの子は私と違って、学がある)


 子産の教育係によれば、知識を面白いほどに吸収しているということだ。家宰はもっと武術を磨いてほしいとは言っていたが、


(あの子は弓は悪くない)


 親の目から見ても、武人として見ても弓に関しては問題はないように感じる。


(私の持ってないものをあの子は持っている)


「僑、勉強はどうだ?」


「楽しいです」


「そうか。それは良かった」


 息子の笑みを見ながら彼は喜ぶ。


(この子はきっと飾るだけの者になることはない)


 彼はそう確信した。




 












 曹では曹の宣公せんこうが晋に従って出征してから、公子・負芻ふすうが国を守っていた。だが宣公は秦との戦いの中で死んでしまったため、公子・欣時きんじ(字は子臧しぞう)を送って宣公の死体を引き取らせに行かせた。


「さて、いつでも太子が即位できるように準備しなければならないな」


 公子・負芻は群臣たちと話し合いを終えて、彼らが朝廷から出て行くところを見ながら呟いた。


 そんな時、ふと彼は玉座を見た。そこは国君であるものが座る席である。それを眺めている内に彼は回りを気にした。そして、誰もいないことを知ると玉座に近づいた。


 またしてもきょろきょろとあたりを見渡してから、玉座に座った。


「おお、これが国君の景色というやつか」


 玉座に座って、朝廷を見渡しながら呟いた。そこからの彼の行動は正に魔が差したと言うべきだろうか。


 秋、負芻は宣公の太子を殺して自立した。これを曹の成公せいこうという。


 諸侯はこのことを聞き、曹討伐を晋に請うたが、晋は曹が秦との戦いに協力したため、討伐を先に延ばすことにした。


 冬、公子・欣時が宣公の遺体と共に帰国したため、曹は宣公を埋葬した。


 葬儀・埋葬が終わると公子・欣時は出奔しようとした。彼は曹の国民にとても信頼されていたため、国民もそれに従おうとした・


 成公は流石にこの事態に恐れて自分の罪を認め、欣時に留まるよう請うた。欣時としては国に混乱が起きることを望んではいないのである。そのため帰国したが、自分の采邑を成公に返した。













 紀元前577年


 衛の定公ていこうが晋に入朝した。


 晋の厲公れいこうは彼をもてなす中で晋に亡命した孫林父そんりんぽを帰国させるため、定公に孫林父との会見を要求した。しかし定公は拒否した。彼のことが心底嫌いなのである。


 夏、定公が帰国してから、厲公は郤犨げきしゅうに孫林父を送らせた。もしかすると晋でも嫌われたのかもしれない。


「断ったにも関わらず、送ってくるとは……」


 定公は忌々しく思いながら受け入れを拒否しようとしたが、夫人の定姜ていきょうが止めた。


「いけません。彼は先君の宗卿の嗣(先君は定公の父・穆公ぼくこう。宗卿は孫林父の父・孫良夫そんりょうふ。孫氏は衛の武公ぶこうの子孫であるため、衛君とは同宗)であり、大国からも復帰を要求されているのです。受け入れなければ、衛が滅ぼされることになりましょう。たとえ彼を嫌っていたとしても、亡国よりましではありませんか。主公は我慢するべきです。民を安定させて宗卿を赦すのですから、悪いことではないではありませんか」


 定公は孫林父に会って元の官職を与え、采邑の戚を還した。


 その後、定公は宴を開いて郤犨をもてなし、寧殖ねいしょくが相になった。


 その宴で郤犨が傲慢だったため、寧殖が言った。


「彼の家は亡ぶでしょう。古の宴は威儀を観察し、禍福を探るものでした。そのため『詩経(小雅・桑扈)』にこうあります。『大きな酒器に美酒を盛ろうではないか。驕慢にならず、万福を集めん』彼の傲慢は、禍を得る道となるはずになることでしょう」



















 秋、魯の叔孫僑如しゅくそんきょうじょが斉女(姜氏)を迎えに行った。魯の成公の婚姻のためである。


 八月、鄭の公子・(字は子罕しかん。穆公の子)が許を攻めたが、敗戦した。どうにもこの人は戦下手である。


 これを受けて、成公は再び許を攻めた。鄭軍が郛(外城)に侵入し、許は叔申しゅくしん公孫申こうそんしん)が決めた国境(紀元前587年)を受け入れて講和した。


 九月、魯の叔孫僑如が夫人・姜氏(成公夫人)と共に斉から魯に還った。


 この頃、衛の定公が病に倒れた。定公は孔烝鉏こうじょうそ孔達こうたつの子)と甯殖に命じ、敬姒けいじ(恐らく定公の妾。姜氏)の子・かんを太子に立てさせた。


 十月、定公が死んだ。


 敬姒は哭葬が終わって休んだ時、ふと太子・衎を見ると悲しむ姿が見えず、酌飲(質素な飲食)をする様子もなかったため、嘆いた。


「彼は国に敗亡をもたらし、その禍は未亡人である私の身から始まることでしょう。天が国に禍を下すことになりました。なぜせん子鮮しせん。太子・衎の同母弟)を社稷の主にすることができないのでしょうか」


 これを聞いた諸大夫は皆危惧した。


 孫林父はこれを聞いてから、重器(宝物)を衛に置かず、全て戚(孫氏の邑)に集め、晋の大夫と連絡を取り合うようになった。

 

 このように危惧されながら即位した太子・衎を衛の献公けんこうという。



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