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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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第一次弭兵の会

遅れました。

 宋の華元かげんは楚の令尹・子重しちょうとも、晋の欒書らんしょとも良い関係にあった(正し仲が良いわけではない)。


 当時、楚は晋が派遣した糴茷による講和の申し出に同意し、糴茷を帰国させたばかりであった。


 冬、楚と晋の講和の動きを知った華元は、


「さっさと進めるべきであろうよ。戦はしないことに限る」


 彼はまず楚に行き、その後、晋に入って調停を買って出た。


 だが、両国ともすんなりとはいかなかった。


(まあ、時間を掛ければよい)


 華元は根気よく説得に努めた。








 この頃、秦と晋が和して令狐で会見することになった。今までは秦と晋は仲が悪かったのだが、即位したばかりである晋の厲公れいこうを擁する晋としては諸侯と積極的に友好を結ぼうと考えていた。


 それに秦は晋の景公けいこうが病に倒れている際に医者を派遣してくれてもいるため、友好関係を結ぶ上で良いと晋は判断したのである。


 厲公が先に令狐に到着したが、秦の桓公かんこうは黄河を渡らず、王城に駐留すると、大夫・史顆を送って令狐で厲公と盟を結ばせた。


 一方の晋は郤犨げきしゅうが王城に渡り、桓公と盟を結んだ。


 これに士燮ししょうは憤りながら言った。


「このような盟に益はない。斎盟(斎戒結盟)とは信によって成り立っている。そのため会盟の場所とは信の始め(基本)である。始めが正しくないのに、信が成り立つはずがないではないか」


 案の定、桓公は帰国後、晋との講和を破棄し、狄(翟)と共に晋を攻撃を仕掛けた。


 秦は先君の景公には医者を派遣してやったりしているにも関わらず、何故わざわざ晋と対立を深める真似をしたのだろうか?


 もしかすれば、桓公という人は厲公の本質を見抜き、これに関わることを良しとはしなかったのではないか。


 


 





 紀元前579年

 

 昨年から晋楚の和平の説得を続けていた宋の華元が晋と楚の和平を成立させた。


「草臥れたものだ」


 華元は大仕事を成し遂げただけに魂が抜けそうになるほど疲れていた。


「だが、あと少し踏んばらねばな」


 五月、宋主導の元、晋の士燮と楚の公子・罷および許偃きょえんと会見した。


 両国の代表者は宋の西門の外で盟を結び、宣言した。


「晋・楚ともに戎を加えず(兵を交えることなく)、好悪を共にし、協力して災危に臨み、凶患を救済せん。楚を害すものがいれば、晋が討伐し、晋を害するものがいれば、楚が討伐す。交贄(使者の礼物。ここでは外交の使者の意味)が往来し、道路を塞ぐことなく、協力しないものを謀り、背くものを討伐せん。この盟に逆わんとする者は、明神によって誅され、その群を失い、国を治めることができなくなるだろう」


 これによって晋楚で和約が成立した。


 これを第一次「弭兵の会」という。「弭」は「停止する」という意味で、休戦・停戦を指す。


 晋と楚の和約が成立したため、両国の間に位置する鄭の成公せいこうも晋に入って盟に参加し、同じく魯の成公せいこう、衛の定公ていこうも晋に行き、諸侯は瑣沢(または「沙沢」。恐らく晋地)で会盟した。


 宋が主催して弭兵の会が開かれている隙に、狄人が晋を攻撃した。


 しかし狄は油断しており、秋、晋が交剛(詳細位置不明)で狄を破った。


 晋の郤至げきしが楚を聘問し、盟を結んだ。


 楚の共王きょうおうが宴を開き、子反しはんが相(宴席で主人を補佐する役)になる。子反は堂下の地室に鐘鼓を準備した。


 郤至が宴に参加するため堂に登ろうとした時、突然、地下の楽器が鳴り響いた。


 驚いた郤至は退出しようとすると子反が止めた。


「時間がございません。我が君が待っています。お入りください」


 郤至がむっとして言った。


「楚君は先君との誼を忘れず、恩恵を下臣にまで施し、大礼(宴席)を下賜して音楽まで加えられた。もし今後、天の福によって両君が会うことになれば、どうなさるおつもりか。下臣が応じるわけにはいきません」


 諸侯が享受するべき礼を既に臣下である私に与えられた。国君同士が会うことになれば、どのような礼を用いるというのかという意味でそれを受け入れるわけにはいかないと彼は言ったのである。


 郤至は傲慢な部分はあるが、一定の教養を持ち、礼儀を心得ている男である。ただ、この男の欠点は融通がきかないところである。


 それに対し、子反が言った。


「天の福によって両君が相まみえることになられましたら、一矢を贈りあうだけのこと。音楽など必要ごじますまい。我が君がお待ちです。吾子あなたはお入りください」


 郤至が言った。


「もし一矢によって款待するというのであれば、それは大きな禍となります。どこに福があるのでしょうか。世が平穏に治まれば、諸侯は天子に仕える合間に互いに朝し、享宴の礼を行うもの。享とは恭敬と倹約を教えるものです」


 因みに享も宴の一種であるが、酒食を並べるだけで実際には食べることはない。そのため、恭敬と倹約を意味する。


 宴(通常の酒宴を指す)は慈恵を示す。


「恭敬倹約によって礼が行われ、慈恵によって政が布かれる。政は礼によって成り立ち、民を休ませることができます。百官が政事に関する指示を受けるのは、朝会の時であって夕(夜)ではございません。これは公侯が城の民を守るためです」


 朝、百官に命を与えて、昼は政務を行うという意味である。


「『詩経(周南・兎罝)』にはこうあります『勇ましき武人、公侯を守らん』政治が乱れて諸侯が貪婪になり、欲に限りがなくなれば、わずかな土地を求めて民を死に至らしめ、武夫を求めて自分の腹心・股肱・爪牙にするもの。『詩経(同上)』はこうとも言っています『勇ましき武夫が公侯の腹心にならん』天下に道があれば、公侯は民のために城を守り、腹心を制御することができますが、天下が乱れれば、逆になります。今、吾子あなたの言は乱の道です。法(常道)にしてはなりません。しかし吾子は主(宴の主催者)なので、私が従わないわけにもいきません」


 郤至は宴に参加し、帰国してから士燮に話した。


 士燮はこう言った。


「無礼である。楚は約束を守らないだろう。私が死ぬ日は近いだろう(楚と大きな戦いがある日は近い)」


 冬、楚の公子・が晋を聘問した。


 十二月、厲公と公子・罷が赤棘で盟を結んだ。


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